終戦2ヶ月前1945年(昭和20年)6月20日になっても未だこんな事を言っていた。
奴隷国民の悲惨な犠牲者が日に日に積みあがって行った。


日本軍は当然日本人虐殺する。

1982年9月14日沖縄タイムス
米軍の捕虜となり、部落の裏山に避難している一般住民を救出するため(一部の証言では救出ではなく、部落の避難小屋にあった食糧を取りに行くため)、名護市許田へ向かった金城幸三氏と幸正の兄弟について、次のように書かれている。
 幸三さんと幸正さんは、部落裏山の避難小屋近くで日本皇軍宇土部隊に見つかり、許可証なども持っていたことなどからスパイとして拷問を受ける。 敗残兵は3人で、幸三さんと幸正さんを木に縛り、耳を切り落とすなどして惨殺した、という。

米軍に敗れた後の宇土部隊は、南はウフシッタイから北は伊湯岳の間にあって、各地に出没し住民から食糧を奪ったり、スパイ容疑で住民を拷問したり、殺害したりしている。なかには、クリ舟と漕ぎ手を徴発して、与論・沖永良部方面へ脱出し、奄美大島、鹿児島へと逃れた者もいた。

この日本陸軍宇土部隊は、五月には大宜味村渡野喜屋(現在の白浜)で読谷山村出身の避難民を含む数人を虐殺し、残りの避難民家族を浜辺に集め、手りゅう弾を投げ込んで虐殺した。「五月十二日夜間、塩屋の渡野喜屋で曹長に率いられた日本兵一〇人が、住民三五人を殺し、一五人に負傷させる。そのほとんどが婦女子である。この集団は、その村落の指導者四、五人を連れて山に戻った」。『沖縄戦学習のために』(安仁屋政昭著、三八頁)、『沖縄県史 沖縄戦記録2』(五六九頁)、『浦添市史 第五巻』(二九〇頁)



戦時中、残虐な弾圧集団特高警察によって数十万の国民が逮捕、拷問され、1700人も虐殺された。


『告発戦後の特高官僚 反動潮流の源泉』 柳河瀬精/著
日本機関紙出版センター刊

戦後
日本国民弾圧虐殺の張本人が57人も国会議員になった異常な国家。


天皇制下の侵略強盗戦争時代、国民弾圧が常態化していた。

平和、自由、民主主義、人権…を抑圧し歴史を逆流させる「復旧派」を告発。
治安維持法によって逮捕されたものは数十万人、虐殺80人余、 送検75,681人、実刑5,162人に及ぶ。
戦前、特高警察の拷問などで命を奪われた人だけでも1697人以上
(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。
こうした人道に反する犯罪をおかした特高たちは、戦後、約5000人が公職追放となり、
特高課配属の下級警察官は職を失いますが、特高官僚は「休職」扱いで多くが復権、
要職についた。柳河瀬精氏の調べによると、国会議員には次の54人がなった。
(『告発―戦後の特高官僚―反動潮流の源泉』参照)

特高警察関係者で戦後、国会議員となった人物は『特高警察黒書』(新日本出版社、77年発行)や最近出版された『告発・戦後の特高官僚―反動潮流の源泉』(柳河瀬精著、日本機関紙出版センター)に掲載されています。前者は警察関係者もふくめ63人、柳河瀬氏は54人の名をあげています。

 この中には、敗戦までの11年間に内務省警保局長だった14人中7人がふくまれます。警保局長とは、全国の特高のいわば直接的指揮官です。『特高警察黒書』によれば、7人在任中の弾圧は次のようなものです。

 (カッコ内は戦後の役職)

 ▽唐沢俊樹(岸内閣法相) 労農救援会、エスペランチスト同盟、プロレタリア科学同盟の弾圧 美濃部達吉著書発禁、35年の1年間で共産党員・支持者を1772人逮捕、大本教や日本労働組合全国協議会弾圧。

 ▽大村清一(鳩山内閣防衛庁長官) 日本政治経済研究所や、ひとのみち教団弾圧。

 ▽山崎巌(池田内閣自治相) 人形劇団プーク、生活主義綴方教育、京大俳句会弾圧、春日正一、酒井定吉、岡部隆司ら共産主義者を投獄。

 ▽橋本清吉(衆院議員、三重) 治安維持法全面改悪、雑誌『機械工の知識』、俳句・漫画グループの弾圧、「企画院事件」で勝間田清一、正木千冬、岡倉古志郎、川崎巳三郎らの投獄、御国教などの宗教弾圧。

 ▽今松治郎(衆院議員、愛媛) ゾルゲ事件、太平洋戦争開戦にともなう非常措置弾圧、松尾鉱山朝鮮人労働者や短歌グループの弾圧。

 ▽町村金五(田中内閣自治相、信孝現外相の父) 創価学会、第七日基督再臨団などの宗教弾圧、一連のいわゆる「横浜事件」の弾圧、『改造』『中央公論』を廃刊に追い込む。

 ▽古井喜実(池田内閣厚相) 高倉輝、松本正雄、美作太郎、三木清、塩谷アイらの投獄をはじめ庶民にも弾圧を拡大。

 特高官僚は、これらの権力犯罪にたいする謝罪や反省もなく、戦後も政治の中枢に居すわったのです。

当選順、主な特高歴
大久保留次郎・警視庁特高課長、増田甲子七・警保局図書課、松浦栄・秋田県特高課長、大村清一・警保局長、鈴木直人・広島県特高課長、岡田喜久治・警視庁外事課長兼特高課長、青柳一郎・熊本県特高課長、鈴木幹雄・警視庁特高部外事課長、中村清・京都府特高課長、西村直己・静岡県特高課警部、館哲二・内務次官、町村金五・警保局長、池田清・警視庁外事課長・警視総監、今松治郎・警保局長、大麻唯男・警保局外事課長、岡田忠彦・警保局長、岡本茂・新潟県特高課長、河原田稼吉・保安課長・内相、菅太郎・福井県外事課長兼特高課長、薄田美朝・大阪府特高課警部・警視総監、田子一民・警保局保安課長兼図書課長、館林三喜男・警保局事務官活動写真フィルム検閲係主任、富田健治・警保局長、灘尾弘吉・内務次官、丹羽喬四郎・京都府特高課長、古井喜実・警保局長、山崎巌・警保局長、吉江勝保・滋賀県特高課長、相川勝六・警保局保安課長、雪沢千代治・兵庫県外事課長、橋本清吉・警保局長、保岡武久・大阪府特高課長、伊能芳雄・警視庁特高課長、大達茂雄・内務相、後藤文夫・警保局長、寺本広作・青森県特高課長、広瀬久忠・内務次官、大坪保雄・警保局図書課長、岡崎英城・警視庁特高部長、唐沢俊樹・警保局長、纐纈弥三・警視庁特高課長、亀山孝一・山口県特高課長、川崎末五郎・警保局図書課長、高村坂彦・鳥取県特高課長、重成格・警保局検閲課長、増原恵吉・和歌山県特高課長、桜井三郎・警保局事務官ローマ駐在官、湯沢三千男・内相、安井誠一郎・神奈川県外事課長、奥野誠亮・鹿児島県特高課長、古屋亨・岩手県特高課長、金井元彦・警保局検閲課長、原文兵衛・鹿児島県特高課長、川合武・長野県特高課長


2007-6
遂に平成軍需利権は国民に凶暴な牙を剥いた。







国民を置き去りにし家族を連れてさっさと逃げた侵略泥棒集団・関東軍。



2005・7・6
天皇の日本国家によって
中国に放置された日本国民残留孤児
悲惨な放置政策を正当化判決のメチャクチャ国家

「国を愛するような人間は犯罪者である。」
ということがこの7月5日の判決によって証明・確認された。


一九四五年八月八日にソ連が日本に宣戦布告し、翌九日にソ連軍は中国東北部に進軍した。関東軍は、この時すでに主力を南方や本土に引き抜かれて、その兵員は在留邦人を現地召集によって動員したもので、装備、士気ともに劣っていた。しかも関東軍はソ連参戦を見越して司令部を朝鮮国境付近に移し、満州防衛を放棄していた。軍の幹部たちは家族を連れてさっさと南に逃げた。関東軍は、開拓団を撤退させるとソ連軍に手の内が分かってしまうので、開拓団に何も知らせないままに前線に放置した。つまり、開拓団は案山子(かかし)として置き去りにされたのである。
 ソ連参戦によって満州開拓団約二七万人は、直接ソ連軍の戦火にさらされることになった。開拓団のうち、成年男子はすでに根こそぎ動員され、残るは老幼婦女子ばかりであった。ソ連軍の攻勢の前に、開拓団婦女子らはソ連軍に殺され、あるいは「集団自決」を遂げていった。こうした厳しい状況の中で、たくさんの子どもが中国人に助けられたり、あるいは夫を亡くした女性が中国人と結婚した例も多く、これが今日の中国残留日本人となった。

敗戦までに送り出された開拓団関係者総数は、1938年に始まった武装開拓団である満蒙開拓青少年義勇軍を含めて約27万人。そしてそれらの開拓団関係者のうち成年男性のほとんどは敗戦まぎわまでに根こそぎ現地徴兵され、残された老人・子供・女性は1945年8月9日のソ連参戦後、死の逃避行を余儀なくされた。その過程で約8万人(約30%)ほどが死亡、辛うじて生き残って何らかの形で中国人に養い育てられたのが中国残留孤児・残留婦人にほかならない。

中国残留邦人は、国策により満州に送り出され、敗戦時にも戦場に捨てられ、長年、中国に置き去りにされた。戦後56年以上が過ぎ、日中国交回復からも30年が経過したが、いまだに十分な生活保障もなく、高齢化、就職、教育、住宅など悲惨な状態である。開拓団とは、1931年9月18日に発生した満州事変、それに続く「満州国」建国をきっかけに、「五族協和」「王道楽土」をうたい文句にした関東軍主導のもと、中国東北部に送られた日本人移民のことである。この移民の大半は貧しい農民であり、移民計画は国内的には昭和恐慌のあおりを受けて貧困にあえいでいた。例えば昭和15年東陽熊本開拓団の本体が入植したのはロシアとの国境に近い北満を流れる松花江流域だった。そしてそこで初めて知らされた開拓の実態は予想とは大幅にかけ離れたものだった。
 実は開拓団の入植に備えて用意されていた土地は開拓とは名ばかりで関東軍が現地人からタダ同然の値段で買いたたいた、いわば奪い取った農地だったのだ。大地主になれると信じ込まされていた開拓団員は、現地に入って初めてその事実を知らされた。ということは、開拓団は本人の意志とは全く別に、中国人にとっては侵略者以外のなにものでもなかった。開拓団は確かに戦争の犠牲者であった。しかし、歴史の順序は中国人の犠牲から始まっていたのだ。しかし彼らは、黙々と鍬をふるった。王道楽土を実現するために懸命に大地を耕した。ただの利権泥棒集団でしかなかった関東軍が彼らを騙した挙句、置き去りにして自分たちだけで家族を連れてさっさと南に逃げたのは当然といえば当然であった。

 例えば新潟県の「大陸帰農開拓団」として、大きな期待を受けて出発した「柏崎村」の最終的な結果は、生還者76名、死亡者 122名、残留者16名という数字がすべてを物語っている。日本という国家が、関東軍という利権集団が貧しい国民をいかに食い物にしたかの例である。まさに現代日本に通底する構造である。
腹立たしいことにこの国民を放置して逃げた関東軍の責任を問う裁判は未だに開かれていないのである。

(参考)
桑島節郎「満州武装移民」教育社1979年
井出孫六「終わりなき旅」岩波書店1991年



、、、、私は旧・満州奉天(瀋陽)からの引揚者である。
大東亜共栄圏をめざした大日本帝国は、大陸侵攻の足場として、満州国という傀儡国家を強引に樹立するため、百万人の日本人を送り込んだ。
太平洋戦争の敗北で、その百万人は難民となり、戦乱と飢えと寒さで二十万人が死んだ。
残留孤児の悲劇もこのとき発生した。
、、、、子ども心に受けた衝撃のひとつは、国家はいざというとき国民を守らない、ということだった。
突如参戦を表明したソ連軍が、ソ満国境を越えて進入してきたとき、頼みの関東軍は一般庶民を置きざりにし、本営もろとも後方へ撤退していた。
高級軍人の家族や、国策会社の上層部は真っ先に帰国していた。
国民には国を守れといいながら、国がまず守ったのは、こうした特権階級だったのである。
満州でも沖縄でも、軍は足手まといの女性や子どもを、自決させたり殺したりした。
  国土を蹂躙されたことのある国民は、国家が国民を守らない事実を思い知らされている。
ヒットラーは国民を守ったか。フセインは国民を守ったか。タリバン政権は国民を守ったか。
敗戦直後の日本政府も、国体護持といって天皇制を守り、旧支配階級を守ろうとした。憲法改正に当たっても、明治憲法の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を「日本国ハ君主国トス」と変えただけで、国民の人権などは、ほとんど配慮しなかった。
◆百年の計◆脚本家・ジェームス三木氏 『部落解放』2002年02月号より一部引用。





「奴隷生活に飼い馴らされれば人は簡単に煽られる。」

朝鮮人虐殺に怒りをみなぎらせた詩人、萩原朔太郎が詠んだ「近日所感」。

     朝鮮人あまた殺され
     その血百里の間に連なれり
     われ怒りて視る、何の惨虐ぞ

、、、1923年(大正12年)9月1日マグニチュード7・9から8・2の地震が関東一帯をおそった。
 大惨事に動揺する住民の中に「不逞鮮人の来襲あるべし」などといった流言が流れ、東京を中心に朝鮮人虐殺が始まり、政府は戒厳令をしいた。この地震の最中、6000人をこえる朝鮮人の人々が殺されるという大虐殺事件が起きた。
 ほとんどの町村に在郷軍人会、消防組、青年団などからなる自警団が組織され、あやしいと思われる者を警察にひっぱって行き、あるいはその場で殺した。
 警察は、朝鮮人を保護するという名目の下、朝鮮人の身柄の拘束を始めた。
 埼玉県警察部では、収容した朝鮮人を県外へ移送しようとし、トラックに乗せ、あるいは徒歩集団として中仙道を北上させた。このようにして吹上方面から徒歩で来た人達のうち60余名は熊谷で殺された。
 本庄警察署では押しかけた群集によって警察署内で88名が殺され、神保原では42名が殺された。,,,自警団は当初は倒壊家屋の片付けや罹災者の救援のために出てきていた人達だがなぜ約6000名もの犠牲者を出した「鮮人狩り」という行為に至ってしまったのか。
 竹やり、こん棒、日本刀で虐殺をした人も水を与えた人も同じ村人である。なぜこんなに違ってしまうのか。何が違うのか。(「ロバの耳」石井里恵氏)
9月5日未明、東京・亀戸警察署前広場で連行された朝鮮人労働者・日本人労働組合幹部ら数百名が警察・軍隊によって刺殺・銃殺された。
 朝鮮人虐殺が行なわれた時の赤池濃(警視総監)と水野錬太郎(内務大臣)は、3・1独立運動の時、それぞれ朝鮮総督府警保局長と同政務総監だった。
被殺者六六六一人(一九ニ三年一一月二五日現在)『韓国独立運動史』所収。また、朝鮮人の移動が法的に禁止されていた状況で「保護」という名目で検束された数はニ三七一五人にのぼった。(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』)多くは竹ヤリ、日本刀で惨殺されたり、針金で縛られ殴打暴行の末、殺された。更にひどいのは息の残っている朝鮮人の首を鋸で挽いたり(群馬県藤岡)、ガソリンで焼き殺したり、妊婦の腹を割いたりしている。(東京)当時、日本人で朝鮮人とまちがわれて殺されそうになった千田是也(新劇排優)氏の話はあまりに有名だ。彼の名前も、この時朝鮮人と思われて殺されそうになった経験から、コリヤ(朝鮮)をもじってつけたものだそうだ。 軍による殺害に関する史料も最近見つかった。これには、震災当日の1日夜中から6日午前7時半ごろまでに起こった、20件の武器使用事例が、虐殺を実行した部隊名と兵器使用者、被害者、場所、日時、状況まで書かれている。


○亀戸事件
軍は、江東区亀戸警察署で、労働運動の指導者・河合義虎ら14名を虐殺した。
○甘粕事件
混乱も収まった9月16日に、無政府主義者の大杉栄が、妻であり、女性解放運動家、「青鞜(せいとう)」のメン バーでもあっ た伊藤野枝(いとうのえ)とともに虐殺された甘粕(あまかす)事件。著名な無政府主義者の大杉栄が鶴見に住む弟 を見舞い、その帰り、妻の伊藤野枝や甥の少年とともに虐殺された。東京憲兵隊麹町分隊長甘粕正彦、憲兵隊特高課の森慶次  郎らに捕まりたまたま夫妻と一緒にいた7歳甥、橘宗一(たちばなそういち)も惨殺した。「 主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至までの、ほとんど唯一の大道徳 律であったのである。」大杉栄。
○王希天殺害事件
軍は、亀戸警察で在日中国人留学生のリーダー的存在であった王希天を虐殺した。軍・警察は利権の妨げになる労働運動活動家や社会主義者、朝鮮人などを敵視していた。

震災の混乱の中で殺されたのは朝鮮人だけではなく、日本人や中国人も多くいたのである。非常事態に、政府の機能を停止して軍隊に統治権をゆだねる戒厳令が出されていた中で、軍による虐殺が起きた。
 当時、身分差別を生み出す、天皇制をなくすことが平等な社会を作ることにつながると考える人々がいた。こうした、現在の政治を批判する人々には警察や憲兵隊の監視がついていた。彼らを憲兵らが虐殺したのだ。
 労働者の生活を改善し、権利を認めさせようとする労働運動の指導者・平沢計七(ひらさわけいしち)ら10人が、9月4日深夜、近衛師団の兵隊によって惨い殺害をされた。
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育資料出版会,1992他。

「、、、軍の出動によって、殺された朝鮮人の数は急激に増えた。機関銃を河川敷にすえての殺害である。朝鮮人が襲ってくると信じていた民衆は、軍隊の到着を大歓迎で迎えた。
 (荒川放水路の)葛飾側での虐殺を証言してくれた横田さんは、「軍隊が来たときは、みんな守りにきてくれたと思って『万歳! 万歳!』と大歓迎でした」と言っている。
  また前出の高田さんも、軍隊が朝鮮人虐殺を始めたときの民衆のようすを語っている。
 「憲兵はあくる日、国府台(こうのだい、市川)から来ました。あくる日あたりではなかったでしょうか。軍隊が来たのは早かったですよ。四つ木橋は習志野の騎兵でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮
人がデマを飛ばしたそうで・・・。
  それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」・・・
  機関銃での大量虐殺を見ていたというのは大川さん(仮名)、当時24歳だった。(遺骨)試掘の時、河川敷に来て、話してくれた一人である。 「22,3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四つ木橋の下流の土手下だ。
西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。一梃か二梃の機関銃であっというまに殺した。それからひどくなった。四つ木橋で殺されたのはみんな見ていた」

震災当時の内務大臣後藤新平は内務省利権の典型のような男である。後藤新平(当時40歳)は明治31(1898)年3月から満州鉄道総裁として転出する明治39(1906)年7月まで台湾の民政長官をやっていたわずか8年余で台湾の人を何千人も殺している。その殺し方は、彼自身のいうところによると、土匪帰順法というのをつくり、帰順した土匪(台湾の日本領有にとかく反抗した人たちを当時こういった)に仮帰順証をあたえ、「其後、本帰順証交付の為警察署弁務署支署等へ呼び出し訓令を加え、之に抵抗したるものは之を殺戮することに予定し同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります。」という。 その殺戮数も、判決によるのが537名、討伐隊の手によるものが106名であるのに、後藤のやったのが、「捕縛若(もしく)は護送の際抵抗せし為」という統計数字上の名目で、これがおどろくことに4033人である。国際問題にまでなったのが、1896年6月の雲林支庁の斗六周辺の虐殺事件である。台湾警察の正史である『台湾総督府警察沿革誌』に、「後民戸の兵燹(へいせん:戦争のためにおこる火事)に罹(かか)りしものを調査せるに斗六街に於て三百九十六戸を首(はじ)めとして、付近村庄五十五庄三千八百九十九戸に及び土民殺載の数の如きは審(つまびらか)にすべからざりき。」とあり、一般住民もゲリラもすべて一まとめにして殺戮(さつりく)し、民家に放火し、その犠牲者数不明という、大惨劇を演じた。

台湾ではまた一九三〇年(昭和五年)の一〇月二七日、霧社事件と称される植民地支配により生活を奪われた高砂族の蜂起が起きている。直ちに出動した飛行隊を含む軍隊一、三〇三名と武装警官隊六六八名の地上と空中からの攻撃により月余にして鎮圧された。軍隊と武装警官隊は、戦死者ニ八名、戦傷者二九名、合計五七名の犠牲者を出し、反抗高砂族は、人口の約半数の六四四名が男女、老幼の別なく被弾、殺害、自殺などで死亡した。 警察当局が「味方蕃」をそそのかして、蜂起生き残りの「保護蕃」を襲撃・殺戮させた第二霧仕事件と、二つの段階を設けて考察している。その結果、蜂起六蕃社の高砂族一二三七名のうち蜂起事件後の生存者は五六一名であったが、第二霧社事件直後の生存者は二九八名に激減した。(『日本植民地探訪』大江志乃夫著)
虐殺された人間達の視点を意図的に欠落させて日本・後藤新平は台湾のインフラ整備と衛生整備をやった功労者としての喧伝は新たな侵略の新たな戦略の始まりである。






The Nanking Atrocities



「日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに斬り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。」

(「最後の殿様」)徳川義親著 白泉社・晩年の義親氏による自伝。1986(明治19).10.5〜1986(昭和51).9.5、元越前藩主松平春嶽の五男・マレー方面派遣、陸軍省、陸軍事務嘱託(マレー軍制顧問)



日本軍が侵略戦争の中でアジアの民衆に対しておこなったこと、南京大虐殺や731部隊,毒ガス使用など解 明がすすんでいるが(中国での事例が中心で,東南アジアについてはほとん ど進んでいないという問題がある),他民族を虐殺・収奪・抑圧した日本軍が,自国の民衆に対した時,いったいどういう対応を示したのか,ということの解明は,日本軍の,さらには日本がおこなった戦争の性格を明らかにするうえで,欠かせない課題である。
日本国家が日本国民どのように扱ったかを知れば、南京でアジアで日本皇軍が何をしたかがわかる。

 



ふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が6,7人、私を取り囲み、
キタンランド山になぜ登ったかを問うてきた。私は訳を話した。
残留日本兵の「食」に少し触れた。
その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。
疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。
村人たちは口々にいったのだ。
「母も娘もわれました」
「私の祖母も日本兵に食われてしまいました」
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」
「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち10個も並んだ。
村人たちは泣き叫んではいない。声を荒げてもいない。
押し殺した静かな声だった。
なのにメモ帳が「食われた」というしい言葉で黒く埋まっていくのが不思議だった。
老人は、戸惑う私を無言でじっとみつめていた。

(辺見庸『もの食う人々』単行本P51より引用・1994年ベストセラー


1943年・学徒出陣式

無限の未来を抱えた若者たちを踏み台にして、
国体護持という
究極利権体制の延命に狂奔した政府首相の
史上最も破廉恥だと言われる訓示。

「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より征途につき、
祖先の威風を昂揚し、仇なす敵を撃滅して、
運を扶翼し奉るの日は こんにち来たのであります。」




日本皇軍兵士も子供の頃は他の国の子供たちと同様、天真爛漫であった。しかしいったん小学校に入って『教育勅語』による教科書を習いはじめてから、彼らの中に軍国主義思想がはびこるようになった。
支那派遣軍の情報係下士官のひとりは、次のように証言している。

「当時の私達には、根強い日本民族の優越感があり、他民族蔑視感がありました。そして、殺人を英雄的行為とみなす残忍な武士道精神があり、又、天皇崇拝の絶対主義によって強者、権力者には絶対服従であり、弱者、非権力者を絶対服従させる非人道的な思想があったからこそ、侵略戦争を正義と考え、平気で鬼畜の行為をやってのけたのです。」
洞富雄:決定版『南京大虐殺』(現代史出版会、1982)上P188



日本皇軍の非人間的な訓練について知らない者はいない。
上官から常に残酷な殴打、鉄拳で扱われることによって、若者達は凶暴なな軍人として飼育される。家永三郎氏は、このように飼育された若者たちがただ単に戦闘時の強兵となばかりでなく、そこに「捕虜や現地非戦闘員に対する残虐行為を好んで行なう副次的効果を伴うことも不可避であった」とされ、さらに「平素抑圧されている心理が、人間的合理性を無視した破壊的行動の中に不満を爆発させるのも、自分たちの人権が全く無視されている人たちが、自分の実力下に置かれた弱者の人権を無視する行動に出るのも、それぞれ必然であったといわなければなるまい」と書かれている。
『太平洋戦争』『戦争責任』家永三郎著



『沖縄近い昔の旅・非武の島の記憶(P.145〜147)』から

 防衛庁の戦史研究室がまとめた興味深いデータがある。日本軍に殺されたり、不利益を受けた沖縄住民の数(表1)と、戦争で死んだ14歳未満子供たちの死因を明らかにしたもの(表2)だ。

 これをみると、沖縄戦がどのような戦争であったかがよくわかる。日本軍が住民をいかに敵視したか、そして「軍隊は最後には自国民に銃を向ける」ということである。

 このことは日本軍沖縄守備隊の機密文書でも裏付けられている。たとえば、陸軍球部隊の命令書をつづった『陸軍会報』のなかには、「軍人軍属ヲ間ハズ沖縄語を以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」と明記されている。「沖縄語」は沖縄方言、「間諜」はスパイ、「処分」とは処刑のことである。

 表1の項目中の「スパイ容疑」は諸希有理由としてはもっともらしくみえるが、個々のケースを調べてみると、殺害された者のなかに地域の指導者といわれる者の多いことがわかる。区長、公民館長、避難民のリーダー、学校長、駐在巡査などである。戦場での彼らの役割は、住民を安全地帯に導き、犠牲を最小限にとどめることだ。だから住民の立場を考えて行動するのが普通だ。ところが、このような“民の論理”は戦時には通用しない。すべてが軍事優先であり、軍の足手まといになる者は排除される。住民にとっての「よき指導者」は軍には邪魔者なのである。

 表2をみであらためて思うのは、ガマからの追い出しによる死者の多さと、子供たちまで戦場に駆り出し、最前線で使っていた事実である。弾薬運搬、負傷兵の救護…。「日本兵による射殺」とはいったいどういうことであろうか。考えさせられるデータである。

表1 日本軍による住民殺害と暴力行為

▲投降する住民を殺害   ……124人
▲スパイ容疑で処刑   ………53人
▲強姦         ………16人
▲食糧強奪       ………60件
▲壕追い出し、入場拒否  ……116件
▲集団自決の強要     …………6件

表2 14歳未満の戦没者数
▲壕追い出しによる死亡 …11483人
▲炊事、雑役、兵隊救護中 … 343人
▲自決        ……… 313人
▲食糧運搬中     ……… 194人
▲弾薬運搬中     …………89人
▲陣地構築中     …………85人
▲日本兵による射殺  …………14人
▲その他       ……… 334人



旧日本兵武富登巳男氏の「旧日本軍の実態」講演録より一部引用。

軍隊の特質のー番が膨張性です。
このー、二年の防衛費の動きをご覧になったら分かりますが、国民の総生産のーパーセントを突破したらいかんということを盛んに言っておった時代がありました。ところが、実際にーパーセントを突破したら、もうそれが当たり前になって、もう全然新聞などでも攻撃もしない。正式の軍隊のない近年でもそうですから、いままではー体どうだったかと言いますと、大正十年度は国の予算のほぼ半分ぐらい、正確には四十九パーセントまでを軍事費に取られたことがあります。

こういうふうになってくると、もうまともな国民の生活などは期待できません。このように軍事費というのは、いったん膨張したら整理がつかなくなるということです。例えば、今年新型の飛行機を用意しても、その飛行機はすぐに旧式になります。大砲でも潜水艦や軍艦といったものでもー緒です。年々新しくする代わりにお金も増々いり、国民の生活は圧迫されるということですcこのように軍隊を養うということはお金が非常にかかり、世界各国が同じような悩みを持ったために、大正の終わり頃、軍縮という問題が初めて起こった訳です。とにかく軍備、軍隊に使う金はもう全く非生産的なものですから、非常に国民は困ります。

軍隊としてのニ番目が残虐性とあります。
どういうことかと言いますと、武器を持った人間が、すなわち軍隊が、出動というんですけれども、実際、任務をもらって行動に移りますと、平気で相手を殺します。それは任務ですから、もう「私は嫌だ」とか、そんなことは言えません。だから、軍隊の中では罪もない人間を殺したり、裁判もせずに殺したり、そういうことが平気になります。それがすなわち残虐性です。

三番目が軍隊の閉鎖性、あるいは秘密性。閉鎖というのは閉じこもるというような意味ですね。それから秘密というのは内緒にするということ。陸軍も海軍もいろいろな例が戦後報告されておりますからご承知と思いますが、結論的に申し上げますと、軍隊は自分に都合のよいことは必要以上に誇張してでも、あるいは美化してでも言うけれども、本当に大事なこと、必要なことはー切軍隊の内部でも内緒にして、秘密にします。ましてや外部には全然知らせず、そういうふうにしていわゆる国民の目をそらすというか、本当のことを知られるのを非常に怖がる特質がありました。これにはもういくらでも実例があります。

とにかく軍隊というところは、全く創作的な話さえも平気で作り上げるそういうところです。後で実例をお話しますけれども、それを武士の情けとか何とか、とてもいい表現をして切り抜けてしまいます。例えば中国の山奥で、仮にニ千五百人おった部隊が全員死んでしまった時でも、玉砕というふうな表現をいたします。玉と砕けた訳ではありません、全員その辺の山の中で野たれ死にしたのです。後片付けをする者がー人もおりませんから、死体は全く放置されたままです。そういうのを玉砕とかいうような美しい言葉でごまかして、国民を戦争に駆り立てる。私自身はそういう表現の仕方にとても怒りをもっております。

兵隊が死ぬことでも、例えば英霊などという言い方があります。本当に英霊でしょうか。お国のために死んだということで、その時は家族も納得しておられるはずですけれど、実際に調べてみるとガダルカナルなどで死んだニ万人、うちー万五千人は飢え死です。何も食べるものがないから飢え死をした。五千人だけが弾丸に当たって死んだんです。その方面の最高指揮官の今村大将が戦争が終わって、軍状の報告を天皇にしました。その報告の中にちゃんと書いてあります。
これが本当です。
ところが当時の発表では、「新作戦の基礎確立のためガダルカナルから転進をした」とあります。「転」はよそに移るというような意味ですね、退却するとか、負けたとかいうような表現は一切ありません。そういうふうな教育を軍隊が明治以来しておりますから、指揮官もすなおに退却と認めればいいんですけれども、そんなことはー切発表せず、日本の軍隊に退却はないとか、変なところで頑張って結局事実を認めません。

ガダルカナルでは、全滅状態になって命からがら帰ってきた福岡県百二十四連隊の兵隊の話を聞きますと、「とにかく非常にひどかった」と。三五四五人おった部隊のうちニ九二七人が死亡して六一八人、二割弱となった訳ですから、それはもう大変な状態で、もちろん軍隊としての働きはできません。昔から軍隊では五十パーセント以上の死傷者が出たら、その部隊は全滅という扱いをしておりました。八十パーセントも死んだら、もう全く全滅以上ですから部隊は形はあっても実際はありません。それで仕方がないからどんどん召集令状を出して、ここに赤紙というのがありますが、どんどん印刷したものを配達をして兵隊を集める訳です。そのようにして、またその名前だけ残っておる部隊を再建する訳です。
そのガナルタナルでやっと命が残ったものが、「もう俺たちはあれだけひどい目に逢うたのだからもう内地に帰れるばい」と、九州の方言ですけれども、こういうことを話して船の中におったがそうはいきません。サイゴンまで来たら、「お前たちを内地に帰す訳にはいかん。お前たちを内地に帰したら日本軍が負けたということをまた内地の者に言いふらすに違いない。お前たちは今からビルマに行け」と言って、次のインパール作戦というすごい戦争にその福岡の百二十四連隊は引き続き行くことになりました。
ガダルカナルで百二十四連隊長は戦死し、軍旗だけ持って帰るのが精一杯だというような状態で、この次はビルマに行ってまたインパール(実際はインドの中なんですが)。ここでまた死ぬような目に遇います(八万六五三八人参加、七万二四〇八人戦死、残兵一万四〇五八人、死亡率八十四パーセント)。すなわち彼らはニ度、生きながら地獄を見てきた訳です。このような体験をした兵隊が、今、私の地元に何人か居られますけれども、彼らの話を聞くと全く涙が出てまいります。

、、、、もうーつだけ申し上げます。戦争の話となると、もうすべてが悲惨ということになってきます。
実際に悲惨です。ところが、この「悲惨」という言葉の表現には、私はとても気をつかうんですが、悲惨さというものを強調すると、もっと大事なことがぼけてきてしまいます。なぜそういう悲惨が起こったのか。その悲惨の後始末はー体どうなったのか、こういうことです。だから目の前の悲惨というのはだれも非常にショックが大きいから「ひどいね」「こんなになって」というふうに感じます。また、新聞でも毎年のことですけれども八月頃になると似たような企画を立てて原爆の生存者とかに、あるいは戦争の体験者にいろいろ取材されます。それはそれでいいんですが、その内容の悲惨の陰に隠されておるものを見分けるだけの力、そういうものを養っていただきたいなあと思います。
先ほどちょっと申し上げましたが、インパール作戦のことに関連して多くの兵隊が飢え死しました。そのときの司令官の指揮のことは別として、実際に作戦に参加した第三十一師団長の佐藤中尉が回想録の中で「大本営、南方総軍、ビルマ方面軍、十五軍、というばかの四乗が、インパールの悲劇を招来した」とはっきり書いておられます。こういうふうな批判的な姿勢というものが大事です。

負けても今申し上げた当時のビルマ方面最高指揮官川辺中将は、その年に陸軍大将に昇進いたしました。私は当時ビルマにおりまして、川辺さんはビルマだけでニ十万人からの兵隊を殺したのだから、責任を感じて大将は辞退されるんじゃないかと戦友と話しておりました。あにはからんや、川辺さんは喜んで大将に昇進して内地に帰られました。聞いたところではご出身の冨山県には銅像まで建っておるそうです。このように日本の軍国主義の反省なんていうものは全然ありませんでした。私は川辺さん個人のことを言うんではありませんが、とにかく責任の所在というものを追求しなかったのが日本軍です。



新しい時代に向けてわれわれはどこに向かうべきなのか。

野田正彰氏の『戦争と罪責』から引用。
確かに戦争は半世紀も昔の出来事となり、核兵器廃絶を願う平和運動はある。だが個人を尊重せず、集団に過剰適応しつつ競争心を抱き、上下の関係にこだわる文化はそのままだ。学歴社会があり、有名校があり、帰属組織の優劣があり、会社での肩書きへの執心があり、そのような価値観を疑う者を不安にさせる圧力がある。他方には学校でのいじめ、職場でのいじめがあり、私生活を貧しくする会社主義がある。残業や付き合いによって人間性を奪い、業績や付き合いによって人間性を奪い、業績や昇進へと駆り立てる文化は変わらない

 それは内務班で初年兵をいじめ、中国人を刺殺することによって戦争の鬼に鍛え、軍隊での出世に突き動かされて、非抑圧者の苦しみに無感覚だった侵略戦争時の日本人の精神と、どれだけ違っていると言えるだろうか。人々を幼少時から競わせ、羨望と屈辱の関門で攻撃心を高めさせ、それを組織された力に変えるメカニズムは同じではないか。・・・いつしか私は、侵略戦争を直視せず、どのような戦争犯罪を重ねたかを検証せず、否認と忘却によって処理しようとする見構えが、いかに私たちの文化を貧しくしてきたか、考察してみたいと思うようになっていた。それも罪の自覚とともに戦後を生きてきた少数者の精神を通して、多数者の影を浮き上がらせてみたいと考えたのである。」

「感情を抑圧してきた社会のゆがみは、若い世代にも続いている。感情交流を拒否し、他者のちょっとした言葉や態度に「傷つく」を連発する青年たち。彼らは、深い悲しみと単なる好き嫌いとを分別する能力さえ持っていない。
 オウム真理教に溺れていった青年、生死のスイッチを握ることに全能感を得ようとした神戸連続殺人事件の少年、彼らは精神の強さを求めて、何が精神の強さなのか、考えようとはしなかった。戦時から戦後へと続いた、集団主義の文化の中での「精神の強さ」という問いは、他者への暴力にも、自己の精神への暴力にも向かいえた。

 このような精神の破壊への無感覚を、私は子どもの教育を統制する文部官僚、政治家にも見る。行政が学校で「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱を奨めることは許されるだろうが、掲揚にあたって起立しない教師、斉唱に加わらない教師を処分することは許されない。人間の良心を踏絵によって引き裂いている。儀式についての対立は、永い対話によってしか解決しない。校長や先生の良心を強制によって傷つけておいて、先生たちに「心の教育」を要求する、彼らの感情の鈍さ。それはたとえば、戦前、神社は宗教ではないという詭弁をもってキリスト教会の代表者に伊勢神宮参拝を強い、各教会の聖職者に神社参拝を行わせた、良心への暴力に通底している。踏絵の暴力を強いる人々の感情麻痺は、さらに暴力にさらされた人々への感情麻痺となって広がっていく。到るところに、精神的に傷つかない人々の仮面がある。無表情なそれ、柔和に虚しい笑みを浮かべたそれ、緊張したそれ、疲れたそれ。

  それでは、どうすればいいのか。
私たちはいかにして豊かな感情を回復するのか。さしあたって、いかにして傷つくことのできる精神を取り戻すことができるのか。一気に感情の柔らかさは回復しない。私は、まず知ることだと思う。何をしたのか、何が起こったのか、知る努力から始まる。戦後半世紀を経たが、戦争を生きた人々は同時代人が何をしたのか、戦後世代は父母や祖父母の世代が何をしたのか、問わねばならない。
 問い、知ることによって、私たちは次の段階に達する。具体的に、詳細に知ることによって、殺されていった人々に少しだけ感情移入できる。・・・殺戮に直接加担した者だけでなく、戦争を生きた世代はそれぞれに自分の感情麻痺を問い直すことができる。戦後世代は、侵略戦争を否認した戦後社会での自我形成の歪みを問わなければならない。
 知り、語り合い、さらに感じるという二つの段階を順々に経て、私たちは傷つきうる柔らかい精神を取り戻すだろう。私たちはその作業ができる時に、ようやくきている。」

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