反軍拡・利権阻止の石井紘基議員はなぜ刺殺されたのか。
2002・10・25


「TheNewYorkTimes」
October 25, 2002
Ishii's main policy positions included opposition to any expansion of Japan's military and wasteful government spending. He supported increasing welfare for the needy.、、、、、
、、、石井の主要な政策立場は、軍拡と不経済な政府支出に反対するものだった。彼は、増え続ける貧しい者の福祉を支援していた。




軍縮こそが石井紘基の夢見た世界だった。
すべての矛盾はそこに集約されることを彼は知っていた。
1988年、第三回国連軍縮特別総会に社民連事務局長として出席した石井紘基の熱いメッセージ。
究極の利権との闘いに向けて1歩、石井が踏み出したのはおよそ15年前であった。若者たちが武器を取るような世界であってはならない。
あの日、かれは日本の若者に向けて遺言を書いた。


核問題・軍縮問題に取り組む
1988年・石井紘基
明確さ欠く核軍縮の課題
 盛り上がりに欠ける総会
 米ソ間のINF(中距離核戦力)全廃条約締結直後に開かれる第三回国連軍縮特別総会(SSDV)とあって、この総会は大きな期待がもたれた。

 だが、率直に言って前回のSSDII(一九八二年)と比較するとき、反核運動の盛り上がりはいまひとつ不足していたし、熱気のようなものが感じられなかったことも事実である。
 しかし考えようによって、これはむしろ当然だったかもしれない。第一に、地上配備のINF撤廃は、あの西ヨーロッパ民衆の反核運動のうねりがその目的を達成したことを意味し、彼らが一時安堵の胸をなで下ろしたとしても不思議ではないからである。次に、INFが無くなり、戦略核兵器を五〇%削減する米ソ交渉が行われる状況のなかで、“核軍縮の次の課題はなにか”が明確でなかったことも、SSDVに鮮明に問題意識を喚起できなかった一因であろう。

 核軍縮を不動なものに
 この後者の視点に合わせて今例のSSDVを評価するとどうであろうか。
 デクエアル事務総長も冒頭の挨拶で述べていたように、今度の総会で重要なことは、米ソ両超大国の二国間交渉の前進を歓迎するとともに、“核軍縮を多国間協議で補完し、それを不動のものに定着させてゆく”ことであった。それは、軍縮を超大国の利害の調整にとどまらせることなく、世界各国共通の課題として追求する路線の設定であり、国連がそのために積極的役割を果たすということであろう。

 「共通の安全保障」求めて
 SSDVは、最終的に文書形式でこれを確認することはできなかった。けれども今度の総会ほど、“多国間協議の重要性”が強調され、「共通の安全保障」(軍事力に頼って一国の安全保障を追求するという考え方の反対概念であり、相手国と自国の双方の安全を考えるというパルメ委員会の提案、一九八二年)が、多くの国々の代表により力説されたことはなかった。こうした考え方がいまや一つのコンセンサスとして定着しようとしているのである。

 例えば、核実験の全面禁止問題は、米ソニ国間交渉を継続する一方で、今夏よりジュネーブの軍縮会議で多国間協議に付託されることになったし、化学兵器禁止はこの方式で近く実現するところまできている。海洋INFを撤去させる上で重要な“海の軍縮”についても、現在、国連事務総長の委託を受けた専門家の作業が行われており、今秋にも国連総会に報告がだされる予定だ(アメリカはこれをボイコットしているが)。このテーマも多国間協議に付されることになるだろう。

  SSDV、三つの障害
 SSDVは“文書採択”という大魚は逃したものの、もはや後戻りできないコンセンサスを打ち立て始めたのである。

 他方、軍縮の障害物が鮮明になったことも今回のSSDVの一つの特徴である。

 第一の障害物は「抑止論」である。
 フランスのデュマ外相が強調していたように、“核保有国が存在する以上、フランスは抑止論の立場をとり、核開発を行い、核実験をつづける”という。軍事力に全面依存する安全保障こそ“抑止論”であり、そこには「共通の安全保障」論の入り込む余地はない。この発想こそ今後の軍縮交渉のガンとなるだろう。わが国の竹下首相の国連演説も基本的には同じ立場に立っており、“抑止と均衡”を強調していたことに注目しなくてはなるまい。

 第二の障害は、南アフリカとイスラエルの核保有問題である。
 アパルトヘイト(人種偏離)を行い、パレスチナ支配をつづけるこれら国際的無法者が、いまや核兵器を保有し他国を脅かそうとしていることへの危惧が各国から一斉に指摘された。だが、西側諸国はこれに対して有効な対策を立てる誠意を示さなかった。今後、核拡散を禁止し、核軍縮を達成してゆく上で、これら二国は“台風の目”としてマイナスの役割を果たすことに間違いない。

 第三の障害は、“軍縮と開発”をリンクさせよという南側“第三世界”の主張に、北側先進国が余りにも冷淡なことであった。

 十年前に開かれたSSDIの最終文書でも、この両者を結びつけて解決することは確認されており、SSDUでは専門家会議の報告でその具体化が勧告されていた。このテーマは、もはや議論の段階ではなく、財政措置や機構の設立などに着手すべきときにきているのである。

 総額一兆ドルにものぼる軍事の浪費をいかにして削減し、地球の病める部分への建設的な資金に転換させるかは、もはや先進国の第一義的義務であるにもかかわらず、SSDVはそれへの着手を決定できなかった。

  非核太平洋
 “海の軍縮”をどう進めるか
 今回のSSDVで明らかにされたもう一つの問題は、“海の軍縮”をどう進めるかということである。

 スウェーデンのインガ・カールソン首相が強調していたように、海洋への核配備はその“検証”問題をいよいよ困難にし、軍縮を難しくする。その上、海洋のもつ地球的性格から軍事緊張を必然的に国際化もする。各国政府代表は、異口同音にこの点に触れ、次の核軍縮の重要課題だと指摘していた。そして、海洋に関する信頼醸成措置(CBM)を急いで確認しないならば、海洋は無政府的な核軍拡の場に化してしまうとも訴えていた。

 海に包まれ、核ミサイル「トマホーク」搭載艦が寄港しつづけている日本こそ、このテーマで具体的提案をすべきだったが、竹下首相はこれに一切触れるところがなかった。これは驚くべき怠慢であり、外交的音痴という以外にない。

 SSDV終了直後、アメリカのイージス艦がイランの民間航空機を撃墜した悲劇は、余りにも象徴的な事件であった。カールソン首相の指摘は不幸にも的中してしまったのである。

 非核太平洋と日本の責任
 SSDVは、日本に直接関連する重要問題を提起したといえよう。
 それは“非核太平洋と日本の責任”とも呼べるものである。このテーマは政府代表の発言から導きだされたというよりも、むしろ各国の非政府団体(NGO)から提起されたものということができよう。

 周知のように太平洋地域では、海洋の核軍拡の進むなかで、各地で民衆の権利侵害、植民地支配、差別政策等が続発しつつある。フィリピンでは非核憲法と基地撤去を要求する民衆に対するアメリカの陰陽両面からの圧迫がつづいているし、非核憲法をもつべきラウには殺人を含む暴力行為が行われている。核艦艇の寄港を拒否するニュージーランドへのアメリカの圧迫、ニューカレドニアのカナキ民族を植民地支配するフランスなど、われわれの無視できない不幸な事能がつづいている。

 太平洋に位置する日本民衆は、こうした状況を転換させる主体的決意をしない限り、そして彼らと連帯した運動を起こさない限り、太平洋の非核化という目的を達成することはできないであろう。

 SSDVをめぐって提起されたこのような具体的テーマをいかに追求してゆくかを、いまわれわれは問われている。




1989年の2月、社会民主連合事務局長だった石井紘基はその十年史のなかで述べている。

「自由・平等・博愛」――
、、、リクルート疑惑の規模は、ロッキード問題をひとけた凌駕する百五十億、儲けにして約四十億。広がりは政界・財界はもとより、官界・学会・司法界・言論界と、庶民を除く全ての生活領域に及んでいた。勿論、この喜劇シリーズ全巻のテーマは“政治と金、金と政治”だ。
 いま、政治の世紀末がどんどん進行している。政治を白昼堂々と金で買いに行く慣わしがある。政治家は万余の大衆の前でけれん味なくウソをつく。ウソだとわかっているウソをつく。
 政治は一部のボスが動かすという方向にもっていかれてしまっている。大きいものを支配する一部の者が全体を支配し、個々の自由と権利を力ずくで押さえこむ体制にもっていく。こうした政治をリクルート政治と呼ぼう。リクルート政治は有無を言わせない。ウソであろうがワルであろうが関係ない。長いものにはまかれろ、強いものには従え、である。
 国会もそうだ。一部実力者によって全てが裏舞台で決まっていく国対政治といわれる政治体制も、私流に言わせてもらえば“リクルート政治”ないしは“超官僚主義政治”だ。政界・官界をはじめ、いたるところに蔓延してしまったセクショナリズム、官僚主義、秘密主義、権力主義等々の腐敗構造を打破し、徹底的に風通しを良くし、縄張りをとき、自由化しなければならない。
 日本全体の世直し、建て直しが必要である。間違いなく、初めは少数派の運動としてしか成り立ち得ない。大胆に、市民的民主主義の原点にもどることが必要である。それなくしては、大きなバケモノか、大きなドロ舟に飲み込まれてしまうことはあっても、何らの本質的前進はないであろう。




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