軍拡・利権阻止の石井紘基議員はなぜ刺殺されたのか。
2002・10・25




2002・11・8号「週刊朝日」

山本宣治暗殺と軍需利権

1929年3月5日、戦争利権に立ち向かった男が右翼に刺殺された。

彼は貧しい者、虐げられた人々に心からの愛情をもって、その人々の利益のために先頭に立ってたたかった。
彼、
山本宣治(通称山宣)(1889〜1929)は1929年3月5日、迫り来る暗黒の時代に抗し生命をかけて闘い、その夜、右翼七生義団の黒田保久二に短刀によって
刺殺された。



山本宣治は、1889年京都で洋物雑貨店を営む両親の元に生まれ小さいときから体が弱く、少年期は中学1年で肺を患い中途退学、両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後の料理旅館「花やしき浮舟園」)で花づくりをして園芸家を志す。因みに神戸中学時代の先輩に竹久夢二がおり、後に妻千代の絵を描いている。1906(明治39)年大隈重信邸へ園芸見習のために住み込み夜学に通いながら『共産党宣言』や『種の起源』などを読む。その後1907(明治40)年18歳で園芸研究のためカナダのバンクーバーに渡り、5年間園芸、皿洗い、鮭捕漁夫などの仕事をしながら、苦学の生活を送りながら欧米の人道主義者や多くのキリスト教社会主義者と交流。ダーウィンの「進化論」などを学ぶ。この時期に、労働者としてのたくましさと科学的なものの見方を身につける。(ここまでは沖仲士の哲学者と呼ばれ常に社会の最底辺に身を置き、働きながら読書と思索を続け、独学によって弱者の思想を築きあげたエリック・ホッファーに似ている。)この頃日本では1910年に天皇暗殺計画をでっち上げられて多数の社会主義者が抹殺される「大逆事件」が起た。宣冶はもし自分が日本にいればブラックリストに載せられただろうと語っている。

世界は花で飾るのではなく、そこに住む人間の命で暖めるべきもの。生命を研究する学問・生物学こそが自分の生涯の仕事」やがて山宣は見聞を広め1911年に帰国。帰国後も生物学者としての道を歩み、やがて京大・同志社大に籍を置く。24才で同志社普通学校に編入学。そして三校、東大へ進み、生物学者をめざす。 東大卒業後、同志社大学の講師となり、「人生生物学」講義、1922(大正11)年、アメリカの産児調節運動家サンガー女史の訪日をきっかけに、労働者農民の中で性教育啓蒙化、産児制限運動を始める。女史の避妊法を官憲の摘発を避けて『山峨女史家族制限法批判』というタイトルをつけた小冊子で発行した。23年には大著『性教育』を刊行する。



1922年(大正11年)2・11
東京朝日

正しい性知識の普及を広めようと日本で初めての性教育を行う宣治は、やがて産児制限運動を通じて、労働運動に関わる。1924(大正13)年京都労働学校長となり、労働者教育に携わる。この頃、「産児調節評論」(後に「性と社会」と改題)を発行。「いくら子どもを節約したところで、貧乏そのものがなくなるわけではない。一番大切なのは、安心して子どもを産める世の中にすること。働く人々の生活がもっと楽になるように社会のしくみを変えることが必要である
その背景には、以前からの戦争に反対する思想とともに、日本各地を講演して歩く月日の中で眼にした、ブルジョア的な日本政治に闘いをいどみ続ける農民・労働者の力強い姿への共感と連帯の気持ちがあった。彼の講演会は巡査が立ち会い「弁士中止」でたびたび降壇させられた。

「大衆の中に根ざして、大衆とともに生き抜くこと」を己の信条とし、やがて彼は大学の籍を失うが、無産政党 ・労農党代表として、1928年(昭和3)38歳で第1回普通選挙に京都府第2区より立候補し日本最初の衆議院選挙を闘い、当選。第56帝国議会で、3.15事件などでの官憲の拷問を取り上げて政府を追及。

産児制限の講演をするころから、「産めよ、増やせよ」の国策に反していると、政府から眼をつけられていた宣治だったが、右翼からも邪魔な存在としてつけ狙われる。国会議員となった翌年「治安維持法改悪」を通そうとする政府に対し、「この法案は民衆を弾圧し、支配者層のための戦争への道を開くことになる」と、自らの命を懸けて反対の立場を貫く。



大阪での全国農民組合大会での「
実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・・」という有名な演説は、まさに治安維持法改悪反対の演説草稿を準備している最中のものであった。この言葉は、墓碑銘として刻まれている。国会での内務官僚への質疑での、命をかけた彼の最後の言葉は「我々はあくまでこの現代の社会における97パーセントを占めるところの無産階級の、その政治的自由、これを獲得するために、こうした暗澹たるこの裏面には、犠牲と、血と、涙と、生命までを尽くしているということを申し述べて私の質問をうち切ります」である。この追及の報道は一切抑えられた。これ以降彼の周りには右翼と私服警官がつきまとう。治安維持法改正令(勅令)の事後承認案反対のため、発言原稿を準備して議会に臨んだ。妨害にあって発言できず、その夜、東京・神田の宿舎において、右翼「七生義団」のテロリスト黒田保久二により暗殺される。享年39歳。

その一ヶ月後の4.16事件で、共産党員の大検挙が起き、わが国は大陸進攻、アジア制覇を目指す国民総動員の軍国主義奴隷国家に向かい満州事変から上海事件、太平洋戦争へとつき進んでいった。





山宣


1927年(昭和2年)
金融恐慌・田中儀一内閣・第1次山東出兵(関東軍出動)・芥川龍之介自殺・

1928年(昭和3年)
第2次山東出兵・関東軍張作霖を
爆殺・治安維持法強化・祝祭日小学校国旗掲揚作法制定・内務省に保安課、全県に特高設置・即位大礼・新労働農民党結成即解散命令・
1929年(昭和4年)
山本宣冶代議士右翼に
刺殺さる・共産党員大検挙4・16事件・学生思想対策強化・田中義一内閣総辞職、浜口内閣・失業者30万人・
1930年(昭和5年)
橋本中佐ら桜会結成・霧社事件・浜口首相右翼に
襲撃さる・警視庁色物演芸を取り締まり・生長の家、創価教育学会など結成・
1931年(昭和6年)
桜会、大川周明ら軍事クーデター未遂、三月事件・9・18柳条湖で関東軍満鉄爆破陰謀事件満州事変・十月事件・
1932年(昭和7年)
上海事変・
井上準之助蔵相右翼結社血盟団員に射殺さる・団琢磨右翼結社血盟団員に射殺さる・5・15事件海軍青年将校ら犬養首相を射殺・日満議定書・武装移民団満州へ出発。



田中軍閥内閣。3次にわたる山東出兵。張作霖の爆殺。満蒙支配のための計画。
 世界的大恐慌。関東大震災以来の不況。 金融恐慌、銀行の連鎖倒産。農村における大凶作。小作争議の増大。都市労働者による経済の軍事化、労働条件改悪に反対する闘争の拡大。田中義一首相、天皇に上奏(田中上奏文)「支那を征せんと欲せば、必ず米国の勢力を打倒せざるべからざること。支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざるべからず」

 天皇制右翼利権政府による国民への徹底弾圧と侵略戦争の加速。
奴隷体制固め総仕上げ。平和民主勢力に対する徹底的弾圧。、治安維持法の最高刑10年を死刑及び無期に。目的遂行罪を新規に加え支持団体、協力者すべてを弾圧の対象にした。 改悪案が審議未了になると、28年6月「伝家の宝刀」緊急勅令によってこれを公布。さらに全国に特高警察設置。、思想検事設置し。憲兵隊にも思想係を新設。さらに警察犯処罰令、違警罪即決令、行政執行法、出版法等はそれと結合して治安立法の役割を担わせ、弾圧体制を更に強化。

山本宣治は1929年3月5日、そのような暗黒の時代に抗し生命をかけて闘い、その夜、右翼七生義団の黒田保久二に短刀によって刺殺された。



1928年
殺人を鼓吹する右翼団体


2002年(平成14年)10月25日午前10時35分ごろ、民主党の石井紘基衆院議員(61)が、東京都世田谷区代沢1丁目の自宅玄関前で、刺殺された。バンダナを巻いた男が無言で近づき刺した。現場近くで、凶器とみられる刃渡り約30センチの柳刃包丁が落ちているのが見つかった。石井議員は左胸に刺し傷があり、大量に出血していた。左胸部を刺され、下あごに切り傷があった。男は逃げて倒れた石井議員の胸を一突きしていたことが同日、北沢署捜査本部の調べで分かった。死因は失血死とみられる。石井氏の左胸上部には横に3センチの傷、下あごに約5センチの切り傷。男が石井氏の上着をめくりワイシャツの上から包丁で一突き刺し、あごからのどにかけ長さ約15センチの傷もあった、との情報もある。男は身長約170センチ、50歳ぐらい、ジャンパー姿。「右翼代表は数年前から石井氏に面会を求めて世田谷区の事務所に何度も来ていた。目的は知らない」と石井氏の秘書。3年前から石井氏が何者かに「殺すぞ、火をつけるぞ」と脅迫されていた、との情報もある。石井氏の所在を確認し、警備が手薄な自宅前で待ち伏せを狙った、計画的な犯行の可能性が強まっている。捜査本部は事件の裏に、政治的な背景があるのかも調べている。 伊藤容疑者が出頭したのは、26日午前6時45分ごろ。捜査員をたずねて、1人で東京・霞が関の警視庁本部庁舎正面玄関に姿を現し、自分の名前を名乗った。対応した捜査員は「相当疲れているように見えた」と話しているという。石井議員の秘書によると、伊藤容疑者は右翼の歴史に関する本などを携えて事務所を訪問。購入を持ち掛けたが、事務所側はその都度、断った。別の後援会関係者は「右翼を名乗り、金をたかっていた」と話す。

 伊藤容疑者は1985年に右翼の学生組織に入会したが、半年後に脱退。「守皇塾」という自分1人だけの政治団体を設立して代表を名乗った。伊藤容疑者は過去に、右翼団体を担当する捜査員に電話をかけてきては、「要人を対象にテロをやる」「国会議員をやるつもりだ」などと言っていたという。 捜査員が面談すると、伊藤容疑者にはテロを実行するような様子や雰囲気はなく、説得にすぐに応じていたという。
 ところが、2、3週間前、伊藤容疑者は知り合いの複数の右翼や暴力団関係者に、石井氏の名前を挙げて、「当選回数を重ねるにつれ、生意気になった」「必ずやってやる」と繰り返し言っていたという。
警視庁は殺害動機に思想性など背景はないと判断。アパートを追い出され、野宿などを続けるうちに逆恨みの気持ちが募ったことが殺害動機とみている。

「社会の不正と闘ってきた石井議員が、このように卑劣かつ残虐な犯罪の犠牲となったことは極めて残念だ」。二十五日夕、国会内で緊急に記者会見した民主党の中野寛成幹事長は、一語一語をかみしめるように党声明を読み上げた。
 石井氏は正義感が強く、国会ではしばしば「政官業の癒着構造」を鋭く追及。党運営や政策をめぐり、幹部とぶつかることもあった。中野氏は、捜査当局に事件の早期解決を期待する一方、刺殺という行為に「素人の業ではないのではないか」と印象を述べた。
 石井氏に以前、政治活動の指導を受けたという社民党の福島瑞穂幹事長は同日の記者会見で「これは民主主義に対する挑戦だ。怒りとショックを感じる」と語気を強め、与党幹部も「捜査当局は徹底的な捜査をしてほしい」(中川秀直自民党衆院国対委員長)「非常に優秀な人だっただけに残念だ」(神崎武法公明党代表)などと語った。(新聞各紙)



1929年(昭和4年)3月5日の午後9時50分ごろ、東京市会議員候補者中村高一応援演説から東京・神田区表神保町の止宿先き、旋館「光栄館」に戻ってきた山本宣治は、入浴をすませて、これから、遅い夕食にかかろうとしていた。玄関先きに、紺ガスリの着物に羽織をつけた黒田保久二と名乗る男が現われ、「山本宣治に会いたい」という。黒田はふところから、美濃紙に毛筆で認めたつぎのような斬奸状を出し、山本の代議士辞任を勧告した。二人は、二、三十分話しあったが、互いに声高になった。黒田は、懐中から刃渡り八寸の短刀を抜き放ち、山本の左頸動脈を刺した。その切っ先は肺臓から背髄にまで達した。黒田は、階段を踏みならしており、現場をのがれた。黒田のあとを追うように山本は階段を転がり落ち、玄関の土間まできて絶命した。まだ41歳だった。
黒田は、その足で、一つ橋交番に自首して出た。黒田は31歳。七生義団の団員と名乗った。
右翼勢力と権力機構
この七生義団というのは、門司港で荷役を請負っている大親分木村清が総裁で「われらは国家社会の秩序破壊者に対して挑戦す」という趣旨の団体である。
 関東大震災のころ、木村は、当時門司警察署長桜井敏雄のキモ入りで、全九州から集めた慰問袋をもって上京した。この時、同行したのが義弟の小島安次郎(のち七生義団副総裁)や黒田で、復興後も東京に居残り、木村組出張所を設けた。
 いずれは労働運動対策なのだろうが、桜井署長に可愛いがられた木村は、門司港で働らく沖仲仕を統一する労働共済会を組織し、京城にも朝鮮支部をおくようになった。
 この労働共済会が、のちの七生義団になる。
桜井署長はのち東京に転じたが、警視庁官房主事の大久保留次郎に目をかけられていた。木村は、山宣殺害の一月に上京しているし、黒田が山本につきつけた斬奸状の筆蹟も木村のものだったといわれる。

黒田自身かつて巡査をしたことがあり、事件後かけつけた警視庁の有松特捜課長とは旧知の問だった。このような暗殺事件には、当然、黒幕の存在が想像される。しかも黒田は右翼結社の団員である。黒田自身はあくまで単独犯を主張、背後関係については口をつぐんでいた。いずれにせよ、斬奸状を書いたといわれる木村は「あれは斬奸状ではなく、単なる勧告書だ」という見方で不問に付されたし、犯人の黒田も、国会開会中に現職代議士を殺害しながら、わずかに懲役十二年という考えられないくらいの軽い刑をうけただけだった。黒田は、獄中で「オレはバカを見た。共産主義者を殺すのだから、もちろん無罪で、十万円もらえるということだったのに、こんなところにぶちこまれてしまった」と、よくこぼしていたという。

当時の新聞で、大山郁夫は、つぎのように、語っている。
 「山本君は我々の同志である。労働者農民の敬愛せる勇敢な階級闘士であった。外面温厚な山本君は我々の陣営がもっとも苦難の時にも無産階級解放の最後の勝利を確信して勇敢に踏み止まった人である。(中略)しかし、この白色テロの洗礼は、結局全国の労働者農民階級に憤激の血を湧かさしめ、弔い合戦の意気をもって治安維持法をはじめ一切の無産階級抑圧の悪法撤廃のために戦う政治的自由獲得の闘争に突進すべき一大くさびとなることは疑いない」。 (引用・松本清張他)


弱い立場の農民・労働者の立場に立ち闘い抜いた宣治。
いま2002年、宣治の言葉が若者たちを捉える。
「どうせつぶされるものなら、最初からやらない方が利口だという意見は、つぶされても痛くない高見の見物人か、それともつぶした方が得をする敵側の意見だ」

「問題の立て方を、やらなかった方が利口などと尻込みするのではなしに、もう一ぺんやり直すときにはどうすればいいのかと、前向きに立てるべきなんだよ」

「未来をめざす人類の良心そのものに対する自分の位置をしっかりと見定めた上で、一歩一歩と自分の個人的な良心を、この人類の良心にまで高める努力を続ける途中で、絶対に何ものをも恐れてはならない。」

上田・別所温泉に現在の日本で現存する唯一の八角塔(国宝)が建つ安楽寺(鎌倉時代に建立された信州最古の禅寺・上田市別所温泉2361)の境内に宣治の碑が建っている。
宣治の座右の銘であった「VITA BREVIS SCIENTIA LONGA-生命短く、科学は長し」の言葉が、その碑にしっかりと刻まれている。



1929年(昭和4)3月6日付

October 25, 2002 (ニューヨークタイムズ)
Ishii's main policy positions included opposition to any expansion of Japan's military and wasteful government spending. He supported increasing welfare for the needy.
、、、石井紘基議員の主要な政策立場は、日本の軍拡と不経済な政府支出に反対するものだった。彼は、増え続ける貧しい者の福祉を支援していた。




1928年(昭和3)6月5日付
山本宣冶議員刺殺テロの約10ヶ月前、
関東軍による張作霖爆殺陰謀事件




山本宣治を描いた映画「武器なき闘い」
40年以上前の忘れかけられていた映画に再び、スポットが当たっている。
映画「武器なき闘い」(山本薩夫監督、大東映画製作)は、暗殺された元代議士、山本宣治(通称・ヤマセン)を描いた唯一の映画だ。昭和三十五年頃、当時話題の作家西口克己が、第二弾の新作『山宣』を発表。それを読んで感動した関西の若い勤労者グループが、自分達の手で『山宣』を映画にしようと立ち上がった。資金はすべて百円カンパ、四千人のエキストラは学生や労働者の無料出演という型破りの映画ができあがった。映画は、宣治が京大と同志社大で生物学を教えるかたわら、産児制限の講話をする場面から始まり、大正から昭和へかけての重苦しい世相を写しだす。京大事件後、宣治は大学を追放されて労農党へ入り、農民運動を指揮する。そして昭和三年の総選挙で代議士に当選。しかし、それもつかの間、治安維持法に反対する宣治の陰には官憲の黒い手がのびていた。神田の旅館で、元巡査に刺し殺され、四十年の生涯を閉じる。
映画が作られた1960年は、国中が安保闘争で揺れていた。10月5日 山本宣治の映画化「武器なき闘い」、美松劇場・宇治東映で上映開始 。
その1週間後の10月12日 浅沼社会党委員長、日比谷公会堂の3党首公開演説会で右翼の少年に刺殺される 。
地主に小作料軽減を求めた農民が警察にだまされ、トラックで連行される。故・下元勉扮するヤマセンが右翼の男に刺され、血まみれで倒れ込む……。モノクロのシーンが淡々と流れていく。
「大阪山宣会」は99年3月に発足した。メンバーは主婦や学生や公務員。ヤマセンの功績をたたえ、「武器なき闘い」の自主上映会を3年前から続けている。「武器なき闘い」の自主上映を始めた99年は、国内で通信傍受法、国旗・国歌法、周辺事態法などが次々に成立した年だ。これまでに、約20回の上映会を開いた。鑑賞に来た人は延べ約500人。初めのころ、参加者はいつも、数人だったが、昨年ぐらいから増え始めた。最近、上映会に20代、30代の若者が目立つようになった。以前はガラガラだった会場が満席になることも珍しくない。
歴史は忘れ去られる。だからこそ、いま語らなければならないものがある。それがヤマセンだ」「戦前のような時代を繰り返してはいけない。映画にはその思いがあふれていました」「山宣会」の若者。(2002年11月21日ASAHIから一部)

(参考)
〈月刊『ジャーナリスト』1960年11月25日発行・第43号〉
奪われた見る自由

大島渚監督『日本の夜と霧』を葬ったもの
松竹映画『日本の夜と霧』がわずか4日間(一部地方では5日間)公開しただけで、突然上映中止になったことは、すでに方々の新聞、雑誌で取り上げている。 上映中止は
浅沼社会党委員長暗殺の直後(同じ10月12日夕)に各映画館に指令された。が、じつはそれ以前に大平内閣官房長官から松竹の大谷社長にあてて、上映中止を要求する電話があったという事実がある。これは安保闘争を題材にして今日の国民のエネルギーとその組織のありかたを追及したこの映画に対して政治的な圧迫が加えられたと見ざるをえない事実だ。かつてC級戦犯をあつかった「壁あつき部屋」(松竹、小林正樹監督)がGHQから上映禁止にされた事件と全く同じような言論、思想の自由に対する圧迫と思わざるをえなくなっている。 発表する自由、見る自由が制約されている映画は他にもある。山本薩夫監督の「武器なき闘い」、新藤兼人監督の「裸の島」など独立プロの作品は東京周辺ではほとんど上映する映画館を持てないでいる。商業主義とからみあった有形無形の政治的圧力がこうした優れた仕事に加えられているのだ。



毎年3月5日の彼の命日には、宇治市善法墓地の山本家墓前で「山宣墓前祭」がひらかれ毎年若者たちの参加が増えている。

山本宣冶の長女 故山本治子さんの歌集「清明の季」より

・六十年前主権在民ゆるさざる頑迷は父の命うばひつ
られて死したる父の無念にぞぬば玉闇に紅梅にほふ
・父はただに生物学者と思ひおかむ轉身ののちのむごき死ゆえに



(参考)
田村敬男 編著『追憶の山本宣治』
佐々木敏二著  伝記『山本宣冶』
西口克巳著 『山宣』
金倉義慧著 『画家 大月源二』 ―あるプロレタリア画家の生涯―
山本直英著『山本宣冶の性教育』
『日本の歴史』中央公論
劇画「山本宣冶」 吉田栄一・作画





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