従軍安婦問題

海を渡った拉致強姦皇軍



集団的自衛権

ゴロツキ詐欺師どもの犯罪



ウォルフィッツによる香港暴動

アメリカが投下した14億円の暴動資金



夕張市とイージス艦

軍需企業の殺人犯罪



集ワーキングプアとスパイ衛星

カモとしての国民



日本国憲法第9条

軍需経済は犯罪である



若き市民派政治家の登場

輝く都民の66万票



竹島・尖閣詐欺事件

3600億円詐欺事件だった。



神風特攻隊と反戦の若者

情けないパシリと信念の英雄



北朝鮮ミサイル騒動

戦後最大の詐欺



韓国艦船沈没詐欺事件

マスコミ一体の詐欺



尖閣列島軍事挑発事件

軍財の国家予算強奪



鳩山・小沢潰し

軍部と検察の一体化



東北大震災

放射能の闇



靖国英霊兵士の侵略犯罪

女子供を片っ端から突き殺す



学徒出陣

子供を特攻させて生き延びた国



新自由主義

詐欺師たちの饗宴



目次



従軍安婦問題とは何か


白馬事件(しろうまじけん)とは、日本軍占領中のインドネシアで日本軍人によりオランダ人女性に対して行われた監禁・強姦事件のことである。(皇軍による同じ様な事件が朝鮮半島・中国・アジア各地そして日本国内で日常的に起きていたことは言うまでもない。)

1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において将官や兵站責任者の佐官などの高級将校に有罪が宣告されている。
女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。

2007年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。

また同2007年、米国議会での慰安婦聴聞会にこの事件の被害者・証人としてたったジャン・ラフ・オハーン(ジャンヌ・オヘルネとも表記)は、 当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」

朝鮮半島では日本軍によってこの白馬事件以上の拉致・強制連行・強姦が日常的に行われたことは言うまでもない。

インドネシアでオランダ女性に監禁・強姦の限りを尽くした日本皇軍が朝鮮半島では紳士だったと極右ゴロツキ集団の安倍晋三一派は言い出して世界中から破廉恥ファシストと呼ばれている。
言うまでもなく安倍一派は戦前から続く腐敗軍事企業の犬コロとして国家間憎悪を煽りにあおる利権屋集団である。


白馬(スマラン)事件が起きたジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)には佐藤源治という岩手県出身の特高憲兵曹長がいました。彼は捕虜収容所での弾圧や拷問の責任を問われ1948年にバタビア裁判で死刑判決を受けています。獄中で書かれた多くの手記は戦後に『ジャワ獄中記』(草思社、1985年)として出版されています。

この手記の中には「僕は唱歌が下手でした」と題する詩があり、靖国神社*2・遊就館の「靖国の神々」のコーナーに展示されるなど、非常に人気があるようです。歴史修正主義者で産経記者の阿比留瑠比も「完全に引き込まれ」「涙が止まりませんでした」とBlogで書いています。

しかし、佐藤の手記には靖国神社では決して展示されることのない手記がある。
東北農村の青年男女に寄す」という故郷の若者への遺言とも言える一文がそれである。
そのなかで彼は「田舎出の青年は女性の人格を認めることを知らない」と述べたうえで、次のように記している。

多くの本来純朴であったはずの農村出の若者たちが、外地の民衆、とくに婦女子にたいし、どれほど非人道的行為を加えたか、それはまさに目をおおわんばかりの破廉恥な残虐行動だったといえる。日本の敗戦は他民族の民心を把握し得なかった点にもあったし、天道への背反による破綻であったともいえる。
佐藤源治 著 /菊池日出海 編『ジャワ獄中記』(草思社、1985年)p122


スマラン事件が裁かれるのは戦後になってオランダによるバタビア裁判によってである。将校7名と軍属4名が有罪となっている。

計画の中心的役割を果たしたとみられた大久保大佐は、戦犯容疑者となったことを知り、故郷仙台で自殺している。遺書には「能崎に責任がある」とあり、これも裁判では証拠資料となった。判決では岡田少佐の行為を「軍の名の下に若い女性を売春目的で強制連行し、理解出来ない日本語の承諾書に署名させ、女性を各慰安所に分け与えて、売春を強制し、強姦した。」と事実認定されている。

(※日本政府はこのバタビア裁判の判決を、1951年のサンフランシスコ平和条約で受諾している。)

この裁判で事情聴取に応じた民間人抑留所長の日本軍の大佐は「自由意志によろうと強制によろうと、慰安所のごときところに入れられた女性に対しては、一般の者は虐待されたものとみなす。」と被告を批判している。ただし、従来から運営されていた慰安所の朝鮮人や現地の女性については何ら言及はない。(2)

裁判で弁護を担当した萩原竹治郎弁護人へ、1958年に聞き取り調査が行われている。そこでは、この事件を含め日本軍の戦争犯罪を裁いたオランダによるバタビア裁判全般について「起訴状に出ているくらいのことは事実であったと思う。」「実際にやっているのに無罪になったものもいる。戦犯的事実は起訴された5倍も10倍もあったと思う。」と厳しい意見を述べている。

ところで、この事件を「唯一」とか「例外的」な事件とする主張があるが、そうでないことは、オランダ政府の調査報告書を読むだけでも明らかになる。スマラン事件の現場でもある「スマラン倶楽部」(軍慰安所)で、閉鎖を前にして別の事件が発生しているのである。


日本軍は朝鮮、中国などアジア各地だけで暴虐を尽くしたのではない、
日本国内でも同胞日本国民に対して非道の限りを尽くしたデタラメ犯罪組織であった。
軍事屋の犬コロとして今頃河野談話を見直すなどと恥知らずなことを言い出す鬼畜振りは戦前のままである。

関東軍参謀・陸軍省兵務局長田中隆吉
『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)

・・・・ある高級司令部では政治経済の監督の責任を有する特務班の幹部全員が相語らって、巨額の公金を遊興の費に充てた。ある守備隊長は、富裕にして親日家たる華僑を惨殺して巨額の黄白(=金銀)を奪い、これを土中に陰蔽して他日の用に備えた。ある憲兵隊長は、愛する女に収賄せる多額の金額を与えて料亭を経営せしめ、その利益を貯えた。ある特務機関長は、関係せる女の父親に炭鉱採掘の権利を与えた。ある中隊長は戦地における部下の兵の携行する写真により、その妻が美貌の持主であることを知り、陸大受験のために内地に帰還するや、東京の宿にその兵よりの伝言ありと称してこの妻を誘い寄せ、忌わしき病気さえも感染させた。

 賄賂は公行した。虐殺と掠奪と暴行は枚挙にいとまがなかった。私の親友遠藤三郎中将は、漢口より兵務局の私宛に私信を送り来て、「高級将校にしてその心懸けを改めざる限り、戦争は絶対に解決の見込なし」と憤慨した。

内地においても、大東亜戦争の中期以後における軍隊の暴状は、あたかも外地に似たものがあった。暴行もあった。収賄もあった。掠奪もあった。拳銃をもって威嚇し、人民の家屋を強奪したものもあった。ある大隊長は民がひと月五合の酒に舌鼓を打ちつつあるとき、常に四斗樽を備えて鯨飲日も足らなかった。国民が乳幼児と病人のため、牛乳の入手に多額の金を工面しつつあるとき、健康なるある連隊長は、配給所に対し1日五合の牛乳の配給を強制した。国軍の将校を養成すべきある学校の高級将校は、生徒に配給せられたる石鹸数百個をその家庭に運び、これを米麦と交換して一家の生活の資とした。

ある兵工廠の経理官は、地方のボスと結托し、軍需品の横流しを行い、巨額の金を私した。熊本では外出した兵が女学生を強姦した事件があった。しかもこれらはわずかにその二、三の例に過ぎぬ

 海軍もまた、概ねこれと同工異曲であった。否、陸軍よりもさらに腐敗していた。呉の工廠では数年にわたって工廠長以下が出入り商人と結托し、多額の収賄を行った事件があった。ある地方では、海軍の兵が婦女子を強姦した。父兄が抗議すると、隊長は昂然として言った。「戦に負けて青目玉の子供を産むよりよいだろう」と。


htt従軍慰安婦にされていた女性たちの実態が「“sex slave”性的奴隷」「“Sexual slavery”性的奴隷状態」であることは国際刑事裁判所ローマ規程や、国連の人権委員会で採択された文書の定義をみても否定できない事実なんだけど、日本国内では自分勝手に強制連行と結びつけたMy定義で否定するトンデモ論がはびこっています。

こんな感じです。

「強制連行を認めると、世界からは日本だけが特殊な性奴隷を活用したと評価されるのだ。」(2013年5月17日 橋下徹 Twitter*1)

「なぜ日本だけが性奴隷を活用していたと攻撃されるのか。それは日本だけが女性を強制連行していたとされているからだ。アメリカは、慰安婦を強制的な性奴隷と表現している。」(2013年5月17日 橋下徹 Twitter*2)

ようするに「強制連行の事実はない、それなのに強制連行して性奴隷にしたことにされている!これは不当だ!」といったレベルのものです。

また橋下徹氏は「なぜ日本だけが攻撃されるのか」などと怒っていますが、90年代の初めから旧ユーゴスラビア内戦、ルワンダ内戦での女性に対する暴力や性的奴隷化が問題にされ、その後も、ビルマ軍政下*3、グアテマラ戦時下*4、コンゴ東部*5などで女性たちが性奴隷状態にされていたことが問題にされています。そうしたことを知らないんでしょうかね。

んで、このレベルの否定論が大新聞である読売新聞、産経新聞などでも主張され(こちらの記事*6)橋下氏のツイッターと同様の理屈が展開されています。

これがいかにトンデモかは、以下の国際機関の性的奴隷の「定義」をみれば明らかです。

日本も締約国である国際刑事裁判所データベース及び解説に載せてある「性的奴隷の定義」の要旨

?「奴隷化すること」という用語については、従来から用いられてきた意味に限定されない。
?人を「奴隷化すること」とは、人に対して所有権に伴ういずれか又はすべての権限を行使することをいい、人 ー特に女性及び児童ー の取引(人身売買)の過程でそのような権限を行使することを含む。
?人を性的奴隷状態におくことは、奴隷化することの一形態であり、本人の自己決定権、移動の自由および本人の性的活動に関する事柄に対する決定権の制限を特徴とする。
?性的奴隷という犯罪は、継続的に性行為を強要されることであり、最終的に強制的な性的活動に至る強制労働も含まれる。
?性的奴隷状態とは、強制売春の形態のすべてではないにしても、その大部分を占める。

1998年、国連の人権小委員会で採択されたマクドゥーガル報告書の「性的奴隷の定義」の要旨

(英語原文と和訳および解説は『奴隷状態の定義 - 従軍慰安婦問題を論じる 奴隷状態の定義 - 従軍慰安婦問題を論じる』を参照)

第2章 犯罪の定義

第2節 奴隷制(性的奴隷状態を含む)
?奴隷制の定義は1926年の奴隷条約において明記され、その定義は「奴隷状態とは、所有権を伴う権力の一部もしくは全部が一個人に対して行使されている状況もしくは状態である」、レイプなどの性暴力の形態による性的接触も含む。
?「性的(sexual)」という用語はこの報告書では奴隷制の一形態を説明する形容詞として使われており、別個の犯罪を示すものではない。あらゆる意味で、またあらゆる状況で、性的奴隷制は奴隷制である。性的奴隷制には、女性や少女が「結婚」を強要されるケースや、最終的には拘束する側から強かんなど性行為を強要される家事労働その他の強制労働も含まれる。
?奴隷制という犯罪は政府の関与または国家の行為がなくても成立し、国家の行為者によるものであろうと民間の個人によるものであろうと、国際犯罪に相当する。さらに、奴隷制とは人を所有物として扱うことを指すが、その人が金銭で売買ないしは人身取引されていないという事実をもって無効となることは決してない。
?奴隷制の定義には、自己決定権、移動の自由、自己の性活動に関する事柄の決定権の制限などの概念も内在している。個人的には被害を受ける相当の危険を犯して奴隷状態から逃げることができたとしても、それだけで、奴隷制ではないと解釈してはならない。
?奴隷制にはまた、すべてではないとしても大半の形態の強制売春も含まれる。「強制売春」とは一般に、他人に支配されて性的行為を強要される状態を意味する。
?原則として、武力紛争下では、強制売春と呼びうる実態はたいていの場合、性的奴隷制に相当する。

まとめると、

前借金という名の人身売買により身体を拘束され、自分のことを自由に決定する権利および移動の自由などが一部あるいは全部制限され、隷属状態で所有物として扱われる状態を奴隷状態と言います。人身売買の事実がなかった場合でも、最終的に慰安所のような拘禁施設で継続的に性行為を強要(強制売春)される状態ならば性奴隷状態と言います。

さらに「最終的に強制的な性的活動に至る強制労働も含まれる。」とありますが、1996年に、国際労働機関(ILO)の条約勧告適用専門家委員会は、慰安所での女性たちの状態が1930年の「強制労働条約 第29号」(日本政府は1932年に批准)に違反していると認定しています。

英字新聞などを読んでても、アジア、中東、アフリカにとどまらず、欧米などでも人身売買(Human Trafficking)によって売春をさせられていた女性を、強制売春(Forced prostitution)か性的奴隷状態(Sexual slavery)の被害者として表記するのは、わりと一般的なんじゃないでしょうかね。

で、強制連行の有無ってこの定義と何か直接、関係あんの?

参照

ICL Database & Commentary

国際刑事裁判所ローマ規程データベースおよび解説
ク帰還の多くの母親兵士は子を愛する感情さえ奪われています。


yahoo知恵。。

日本軍の軍紀が厳正だったのは日露戦争、強いて言えば第一次世界大戦の青島戦くらい迄で、あとは無茶苦茶でした。
「一部の不心得者」どころではない、慰安所は日本兵による強姦の多発に困った軍部が南京以後対策として作ったもので、それすら多い時で百万もいた日本軍全体を満足するには程遠いものでした。
憲兵も圧倒的に少なく、例えば南京城に乗り込んだ日本軍7万に対し憲兵は14人。
しかも憲兵が強姦に参加した例もある。

熊本第六師団・谷寿夫師団長は海軍大学校の講義で「勝ち戦のあとや追撃戦では強盗や略奪、強姦はかえって兵の士気を高める」と言って、海軍士官たちを唖然とさせたそうです。
第二次上海事変に続く南京攻略戦ではその通りになりました(谷中将は戦犯で死刑)師団長がこうだったら一般兵士はやり放題です。

終戦時の陸軍大臣で割腹自決した阿南大将は当時少将で陸軍省人事局長。
南京出張報告書に中島師団(第十六師団)についてこう書いている、「婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり。」婦人方面=強姦です。
当時の陸軍参謀総長も現地軍の司令官に異例の厳しい勧告を行っています。

ある兵士の手記では、
「幼児をつれた女を捕まえた。逃げないように裸にして縄をつけて部隊と一緒に連れて行き、夜はみんなで強姦。子供が泣いてうるさいので谷間に放り投げたら、女は泣き叫んで自分もあとを追った。それを見て兵隊たちは『ああ、もったいない!』と笑った」、と。

陸軍省が検閲で差し止めた中国戦線からの兵士の手紙の数々、
「親子を捕らえ、娘は女郎の様にもてあそんでいたが、親が余り娘を返せというので親は殺し、娘は部隊出発まで相変わらずもてあそび、出発の時に殺した」「ある中隊長は、『あとは分からない様に殺しておけ』と教えていた」「戦地では強姦くらいはなんとも思わない。現行犯を憲兵に見つけられ、発砲して抵抗した奴もいた」「約半年ほどの戦闘で覚えたのは強姦と強盗くらいのものだ」、、、

日本軍は朝鮮、中国などアジア各地だけで暴虐を尽くしたのではない、
日本国内でも同胞日本国民に対して非道の限りを尽くしたデタラメ犯罪組織であった。
軍事屋の犬コロとして今頃河野談話を見直すなどと恥知らずなことを言い出す鬼畜振りは戦前のままである。





あの戦争の時代にも命を賭して、勇敢に反戦・反軍の戦いを貫いた聡明で美しい若者たちがいる。

「この戦争はおかしい」と言いながら諾々と戦争犯罪を遂行していった侵略と特攻の若者と、
「この戦争はおかしい」と言いながら命を懸けて軍部財界と対決し反戦の戦いを貫いた若者と、
真に慰霊されるべき若者がどちらかは言うまでもない。

あの過酷な戦争の時代にも命を賭して
勇敢に反戦反軍を貫いた聡明で美しい若者たちがいる、 彼らこそ時代を照らす真の英雄であった。

●諾々と命令に従った卑怯者の薄汚い戦争遂行の英霊兵士どもの侵略強盗殺人犯罪。
諾々と命令に従った卑怯者の薄汚い戦争遂行英霊兵士どもの侵略強盗殺人犯罪は重く取り返しはつかない。
どのように祀られ誰に参拝されようと海を渡って犯した残虐な侵略犯罪者としての罪は消えようがない。
侵略強盗殺人の犯罪者として永久に東京九段の宙空を彷徨うしかないのだ。



「、、、日本ほど資本主義の発達が戦争に結びつく国はない。、、、」エドガー・スノウ『アジアのためのたたかい』

「日本では、大工業、ことに兵器工業は、最初から国家独占、つまり天皇制国家を通じてその利害を一にする財閥、大地主および軍閥の独占事業であった。」ジェイムス・アレン『世界の独占体と平和』



自衛隊の前身である日本軍が関わった民間人虐殺など戦争犯罪行為のほんの一部。

「旅順虐殺事件」(1894年11月21〜25日)
日清戦争で大山巌大将指揮の陸軍第二軍が旅順攻略の際に発生した事件。被害者は2千〜2万人と言われている。

「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894年8月〜1895年3月)
日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する苛烈な掃討作戦。日本軍の記録によれば戦闘で6000人、処刑5600人とされているが、5万人という説もある。

「閔妃暗殺事件」(1895年10月8日)
朝鮮正妃である閔妃が、王宮で日本軍兵士、壮士、大陸浪人らによって惨殺された事件。

「3.1独立運動事件」(1919年3月1日)
朝鮮における最大規模の反日運動で日本官憲により多数の死傷者をだす。

「台湾霧社事件」(1930年3月27日)
日本統治下の台湾霧社で先住少数民族タイヤル人の武装蜂起に対し日本軍、警察が毒ガスを使用して鎮圧。

「平頂山事件」(1932年9月)
満州国建国半年後、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が近くの平頂山集落の中国人住民を大量殺害した事件。被害者数は400〜3000名

「陽高事件」(1937年9月)
支那事変初期において内モンゴルの陽高で関東軍チャハル兵団(兵団長:東条英機)が引き起こした中国人虐殺事件。被害者数350〜500名。

「南京虐殺事件」(1937年12月)
日本軍が首都南京を攻略した際、2ヶ月にわたって多数の中国人捕虜、敗残兵、便衣兵、一般民間人を殺害した事件。

「百人切り」(1937年11〜12月)
南京攻略戦において野田少尉と向井少尉が敵兵百人切り競争をし、それを報道した東京日日新聞の記事が証拠とされ、戦後戦犯として処刑された事件。実際は100人も切っていなかったらしいが、0人ではなかったらしい。

「重慶戦略爆撃」(1938年12月〜1941年9月)
日本陸海軍航空部隊が首都重慶に対し反復実施した大規模な戦略爆撃で多数の民間人死傷者を出した事件。しかし戦犯として訴追された日本人なし。

「七三一部隊と細菌兵器」(1933年〜1945年)
石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的に人体実験を行う。七三一部隊の記録によれば1943年までの検体数は850体。
1940年10月27日に南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。この攻撃後から2ヶ月間の寧波市でのペストによる死者106名。ちなみに、日本は生物兵器を禁止したジュネーブ議定書を批准していない。

「真珠湾奇襲攻撃」1941年12月7日
ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺として原爆投下が正当化された。

「中立国タイとの交戦」1941年12月8日
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の許可前に南部タイへ上陸、タイ軍と交戦し、タイの中立を侵犯する。

「香港戦における英軍捕虜の処分」1941年12月18日
香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件。

「バリスト・スロン捕虜殺害事件」1942年1月22日
近衛師団長西村琢磨中将が、バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜の処分を命じ150名が処刑されたとされる事件。
事件自体でっち上げの説あり。しかし西村中将はこの事件の責を負わされ戦犯として処刑される。

「アレクサンドラ病院事件」1942年2月14日
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサンドラ病院を襲撃。軍医、看護婦、患者を殺害。被害者数200名

「シンガポール華僑虐殺事件」1942年2月15日
シンガポールを占領した第二十五軍が行った反日華僑粛清事件。被害者数6000人〜2万人。

「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」1942年2月
シンガポールからバンカ島の脱出した豪陸軍看護婦20名が日本兵により殺害された事件。

「ラハ事件」1942年2月
日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行場占領時に約200人の捕虜を殺害した事件。

「バターン死の行進」1942年4月
フィリピンバターン半島を攻略した日本軍が、投降した米比軍7万人をルソン島中部オドンネル収容所まで炎天下を徒歩行軍させ3万人近い死者を出した事件。

「マキン島米捕虜の処刑」1942年8月
日本軍が占領するマキン島へ奇襲上陸してすぐに撤退した際、取り残された9名の米海兵隊員を処刑。この処刑された9名に米大統領の息子ジェームス・ルーズベルト少佐が含まれていたとかいないとか。

「駆逐艦秋風虐殺事件」1943年3月16日
ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑留者移送中の駆逐艦秋風が、洋上で全員を処刑。

「泰緬鉄道」1942年1月〜
連合軍捕虜6万2000名が鉄道建設工事に投入され、過労と伝染病などで1万2000名が死亡。

「潜水艦による捕虜洋上処分」
1943年12月14日、呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
1944年3月26日、伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
1944年3月29日、伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明
1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。

「ビハール号事件」1944年3月
重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。

「ババル島事件」1944年10月〜11月
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による住民虐殺事件。被害者数704名。

「ポンナチャック事件」1943年10月〜1944年1月
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模な住民検挙粛清事件。被害者数4000〜2万人

「デュエナス神父処刑事件」1944年7月
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス神父を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。

「メリッソ村民虐殺事件」1944年7月15日
グアム東南部のメリッソ村民が日本軍により虐殺。被害者数46人。

「トラック病院の捕虜生体解剖事件」1944年2〜7月
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名がショック死。生き残った二人はダイナマイトで爆殺された。
さらに他の4名にぶどう状球菌を注射し全員死亡させる。

「ティンブンケ事件」1944年7月
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名の村民が日本軍に集団殺害された事件。

「パラワン島米兵捕虜殺害事件」1944年12月13日
米軍の上陸が迫るフィリピン・パラワン島で飛行場の保守作業に従事していた米軍捕虜150名が処刑される。

「父島人肉食事件」1945年2月
撃墜され落下傘降下した米兵を捕らえ処刑の後、その肉を食べた事件。当時の父島は食料に困っていたわけではなかった。
被害者数8名。

「九州大医学部生体解剖事件」1945年5月17日〜6月2日
米兵捕虜8名を生体実験。肺の全摘出を行った後、輸血の代用として海水を点滴。どのくらい生きながらえるかを実験した。

「マニラ市街戦での虐殺事件」1945年2月
マニラ市街戦で多数の民間人が虐殺された事件。
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害など。

「石垣島事件」1945年4月15日
石垣島で米兵捕虜3名が処刑される。

「ランソン事件」1945年3月
仏印北部のランソンで仏兵捕虜を処刑。

「サンダカン死の行進」1945年2月〜6月
北ボルネオのサンダカンから260キロ離れた西海岸へ移動させられた2000人の英豪捕虜の大部分が飢えと病気のため死亡した事件。

「花岡事件」1945年6月30日
日本へ強制連行され、秋田県花岡炭鉱で働かされていた中国人労務者がおこした蜂起・逃亡事件。
警察、自警団、鹿島組などが鎮圧、見せしめの為100人が拷問後処刑される。

「ヤルート島民処刑事件」1945年5月
マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民21名を殺害。

「カラゴン事件」1945年7月
日本軍が南ビルマのカラゴン村の村民600名を集団殺害した事件。

「オーシャン島住民殺害事件」1945年8月19日
島民140名に終戦を告げた後、全員をがけの上で銃殺。