1999年11月25日

心中・三島由紀夫、29年目の実。

今から29年前、
1970年、昭和45年11月25日、東京市ヶ谷、陸上自衛隊東部方面総監室。

46歳の中年男が25歳の学生を道連れに心中した。

「どうしてひとりで死ななかったのか。」
心中した中年男の「かっての恋人」だった初老の男が、
いま70歳を目前にして呟く。


「・・・・私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首筋に、激しいキスを
しゃぶりつくようにしたのだった。三島さんは、身悶えし、小さな声で、わたしの
耳元にささやいた。
「ぼく、、、幸せ、、」
歓びに濡れそぼった、甘え切った優しい声だった。・・・」

去年1998年3月、日本文学界を衝撃に包み、総ての「三島論」を木っ端微塵に
吹き飛ばしたと言われる、福島次郎の『三島由紀夫、剣と寒紅』80頁の記述である。
「、、私は、頭に灰かぐらをかぶったまま、キスを続けた。私の体よりもずっと小さく細い、
三島さんの体は腰が抜けそうに、私の両腕の中で、柔らかくぐにゃぐにゃになっていた。、」

福島次郎と三島由紀夫が出会っておよそ一ヶ月後のことだった。
貧しい学生だった福島はその時の自分を冷静にこう例えて書いている。
「、辺鄙な村の貧しい作男が、都にそびえる名城の若殿のお目に触れ、
最も身近に添うお気に入りの家臣として、突然召し抱えられた心地、、、」

その時すでに三島由紀夫は華々しいスターだった。
三島の最高傑作『仮面の告白』を熊本の書店で福島が手に取ったのは
昭和25年20歳の時である。

福島次郎も若く、三島由紀夫も若く、そして時代も若かった。

1970年・昭和45年11月25日、
三島由紀夫は最初から森田必勝と一緒に死ぬことだけを考えていたのではなかったか?

1970年11月3日、三島事件の当事者である森田必勝、小川正洋、小賀正義、
古賀浩靖は六本木のサウナに集い、突然三島から、死ぬのは森田と自分だけにしたと
打ち明けられる。

およそ半年前から、5人が決行し、最後には5人で死ぬことを何度も確認していたのに、
森田と二人だけ死ぬ、と他の3人は、突然告げられたのだ。
5人は9月15日に千葉県野田市のイノシシ料理店で、9月25日には新宿のサウナで、
10月2日には銀座の中華料理店、同9日にも銀座の中華料理店で打ち合わせを行っている。
10月19日に東条会館で5人の集合写真を撮影され、
事件当日旧知のNHKの伊達氏と毎日新聞の徳岡孝夫氏に渡された。
事件前23日と24日、パレスホテルで5人は防衛庁東部方面部総監拘束の演習を
8回繰り返しているが、自衛隊員が一人でも呼応してくれた時の具体策はまったく、
考えられていなかった。バルコニーに響き渡った「おれについてくる奴はいないのか。」
という呼び掛けは最初からなんの意味も持ってはいなかったのだ。(『三島事件裁判記録』)


「林さんはもう駄目です。」
「え?」
「もうだめです。あの人、右と左の両方から金をもらっちゃった。」
林とは勿論、右翼の論客・林房雄である。
1970年・昭和45年の9月のある日、場所は銀座「浜作」
呼ばれて駆け付けた毎日新聞徳岡孝夫は『五衰の人』のなかで書いている。
「、、それまで私が見たことのない、世間の人が三島に想像したこともない、
投げ遣りな姿と言葉遣いだった。、、(林房雄に対する怒りは)執拗であった。
普段そんなに飲まない人が、少し自暴自棄に酔っていた。」
同席していたのは三島の実弟・平岡千之氏だ。
徳岡孝夫も千之氏も林房雄の背信行為を呪う三島の言葉を黙って聞いていた。
三島事件のおよそ2ヶ月前である。

その日から一年前、『流動』1969年、昭和44年12月号で三島は
その林房雄を相手に青年の裏切りと、青年への絶望をこう語っている。
「、、自分で苦い目に会ってみなければわからない。
青年というのは一番純真じゃないかもしれませんね。」

三島とともに心中した森田必勝は右翼学生組織・日学同(日本学生同盟)の幹部だった。
43年に出来た下部組織「全日本国防学生会議」の議長だった。
『新右翼・民族派の歴史と現在、新増補版』で森田と親しかった鈴木邦男は言う。
「、、日学同の粛清の歴史はすごかった。「楯の会」に走った人間も、みな除名処分で、
森田必勝などは「共産主義者に魂を売った。」という理由で除名処分にし、
そのことを「日本学生新聞」にデカデカと載せていた。
日学同を裏切る人間は即、敵(共産主義者)を利するものであるという理屈だった。
、、、日学同は、、昔のことに頬かむりして、三島事件に便乗した。
、、森田の日記まで出版しさらに、毎年三島、森田を追悼する「憂国忌」までやっている。
これでは「楯の会」ならずとも激怒するのは当然である。
、、、、今でも、楯の会の人間や当時の事情を知っている人間は、
だから憂国忌には一切参加しない。、、」

三島由紀夫が武道に走った重要な契機は「右翼に対する深刻な恐怖であったことは
間違いない。」と三島の実弟・千之氏は言う。(『三島由紀夫の生涯』安藤武著)

1960年深沢七郎の名作『風流夢譚』を三島由紀夫は熱狂的に支持して中央公論に
推薦した。
その画期的な文学作品に右翼は例によって謂れなき脅迫を繰り返した。
テロが吹き荒れる。
日本の言論は今と同じように右翼暴力団の前に完全に無力であった。
そして遂に、
中央公論社長宅の何の関係も無いお手伝いの婦人が

日本愛国党員に数カ所をめった刺しにされ無残に殺害された。
「嶋中事件」と呼ばれる恐怖の右翼テロ事件である。。
三島と家族は連日右翼の脅迫を受け続け、警察は24時間警護を付ける。
三島への脅迫は安藤武『三島由紀夫、日録』未知谷社刊、に詳述されている。
三島の家族が言った言葉が前掲の安藤氏の本の中に記されている。
「三島は怯えて、震え上がっていました。」
中央公論に掲載された深沢七郎『風流夢譚』は今の日本では読むことが出来ない。
ノーベル賞作家大江健三郎の『政治青年死す』など幾つかの文学作品も
現在の日本で読むことは出来ない。

三島と福島次郎の最初の出会いから15年後、幾多の紆余曲折を経て
ふたりは奔馬の国でまみえる。
三島事件のおよそ4年前1966年、昭和41年8月27日、熊本、「ホテル・キャッスル」。

私が抱きついてゆくと三島さんは急に体の向きを変えて抱き返してきて
小さな声でささやいた。

「しばらくぶりだったね、会いたかったよ。」
、、、、懸命に三島さんの首から、胸、腹に、強いキスを浴びせかけていった。
、、、三島さんはこちらが驚くほどの、甘えた子供のような声をほとばしらせた。
『三島由紀夫、剣と寒紅』


三島由紀夫42歳、福島次郎36歳、熱い再会だった

三島の熊本行きは明治9年に熊本で起きた「神風連事件」と蓮田善明の取材が目的という
ことだった。『豊饒の海』第2巻「奔馬」執筆のための資料である。
「前略 突然ですが小生急にこの夏のをはり熊本を訪問することに決めました。
、、どうしても熊本へ行かなければ神風連の精神がつかめないやうな気がしだしたのです。、、」
という手紙が福島のところに来たのは7月の半ばであった。
熊本での取材中、福島次郎は三島の傍を片時も離れなかった。
そして31日の取材最終日、新市街地の通りの骨董屋で三島は福島とともに
およそ7万円で日本刀を購入する。(『剣と寒紅』)

「どうしてひとりで死ななかったのですか。」
いまや70歳を目前にした、三島の恋人だった初老の男福島次郎は
全霊を賭けた
その著書『三島由紀夫、剣と寒紅』の中で
30年の沈黙を破って二人の男に問いかける。
三島由紀夫と三島が慕い続けた「奔馬の男」蓮田善明に向けて呟く。
蓮田善明も三島由紀夫も、遂に一人で死ぬ事は出来なかったのだ。

人は生まれ、人は死ぬ。
今日、どこかで、ひっそりと死んだ男が三島より強いとは限らない。
明日、人知れず死ぬ男が三島より劇的な生涯だったかは分からない。

「、、どんなに壮烈に遂げられた死も、どんなにみじめな衰弱死も、、、」
と武田泰淳は三島への弔辞の中で言う、
変わらない、平等なのだ、と。
そして
三島由紀夫が身をもって、その滑稽を、その悲痛を、その短い生涯を賭けて顕現させた
誰もさえぎる事の出来ない真実がある。

人生は祭りの夜のように、あっという間に過ぎて行く、
神も教祖も天皇も王も、国家も民族も、どこにも在りはしない、
そのような小で笑止なものに入れあげる時間など、
どこにもない。

そのようなものに価値を与え、ぶら下がり、すがりつくのは、
楽なことかもしれないが、何の意味もない。
宗教、民族、国家などという薄汚いかたまりを、まず捨てることだ。
そのような小汚いものにしがみつく、
情けない男になっては、生まれてきた意味すらない。

1999年11月25日
三島由紀夫の
少女のような喘ぎ声と、響き渡る高音の笑い声が、
狂いかけた列島にこだまする。

「、、記憶もなければ何もないところへ自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。、、」 『天人五衰』

99年11月25日Net投稿・MZ氏に無断掲載を感謝陳謝