南京虐殺


若者たちを洗脳してアジア侵略強盗に追い立てた国体軍需利権の体現者たちは、南京を始めとするアジア大陸だけではなく同じ日本国民をも虐殺し、出鱈目の限りを尽くした。



南京大虐殺の真相


長勇大佐は、或る日田中隆吉に語った。
「南京攻略のとき、私は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であった。
上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り(中略)
 自分は通州於いて行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと 喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対して、これ等の捕虜を皆殺しに すべしと命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話により伝達した。
(中略)
命令の結果大量の虐殺が行われた。ただし逃亡するものもあって、皆殺しと言うわけには行かなかった。
自分(長勇)は此れによって通州の残虐に報復したのみではなく、犠牲と成った無辜の霊を慰めえたと信じる」
田中隆吉『裁かれる歴史』より(中公文庫)

出版、1985年(復刻)44〜45p

『沖縄』小山内宏著より一部引用。
、、、、、1945年3月、沖縄、慶良間の無惨
『部隊は、これから米軍を迎え撃ち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』…・・」 (上地一史『沖縄戦史』)

 、、、、、生存者の記録によると、皇軍大尉は、手榴弾が不発で死をまぬがれた住民が、軍の壕へ近づくと入り口で立ちふさがり、軍の壕に入るな、すぐ立ち去れ、とにらみつけたという。一度上陸した米軍は、一部を残して撤退したが、五月上旬ふたたび上陸、伊江島住民二千人もこの島に移動してきた。そのため、渡嘉敷島の農作物はもちろん、野草、トカゲに至るまでが食べつくされるありさまとなった。
 西山陣地に潜った日本皇軍大尉は、住民の所有する食料の五〇パーセントを強制供出を命じ、違反者は厳罰に処した。そして、伊江島出身の女性五名と男子一名が、米軍の命令によって降伏勧告状を届けに赴いたところ、売国奴と罵られて一人一人自らの穴を掘らされ、後手に縛されて斬首された。米軍は島民をもって再三、降伏勧告を行なったが、そのつど、使者に立った沖縄住民は殺害されている。それでいて、米軍に対しては果敢な突撃を行なうではなく、陣地の境内にひそみつづけていたのである。そして、日本が敗戦を迎えると日本皇軍大尉は、部下とともに米軍に降伏し捕虜となった。沖縄住民は、憤りをもってそれを記録している。
「・・・あれほど自分のロで玉砕を叫びながら、みずからは壕のなかに避難して、住民には集団自決を命令、あるいはスパイの濡れ衣を着せて斬殺、暴虐の限りをつくした大尉はいまや平然として降伏文に調印し、恥じる色もなく住民のまえにその大きな面を現わしたのだ。その態度はあくまで傲岸で、すこしも自省の様子はみられなかった。その彼が武装解除され、皇軍の衿持も何もなく捕虜となり、米軍兵士に連れて行かれる姿を、住民たちは複雑な気持ちで凝視していた…」(山川奉邦『秘録沖縄戦史』)

戦後、大尉は自分に与えられた非難に対し、自分は自決の命令もくだしていないし、軍の壕は住民を入れるほどのものではなかった云々・・・と弁明している。そして、週刊誌(週刊新潮)の記者に一度、若気の至りだった、あるいは不徳の至すところ、と語ったことについても「あれはいわば社交辞令」と前言をひるがえしている。
 これに対し、戦争当時、渡嘉敷島の村長であった米田惟好氏は、つぎのように鋭く返している。
「…・・反省しているだろうと思い、いまさら彼ひとりを責めるのはよそうと思っていたのに、このシラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人も浮かぶまい…・」(琉球新報・68年4月8日)


沖縄における日本皇軍の横暴は末端の兵隊だけのものではなかった。
 将校の中には「中国大陸や南方の占領地とでも錯覚したのか、軍政をしくなどと、とんでもない放言をする」者もいた(浦崎純『消えた沖縄県』四五頁)。
 
また皇軍将校たちが那覇の「辻遊郭で日夜飲み騒ぐのを見せつけられた住民は……この郷土沖縄がまるで外地同様植民地であって、あたかも外国軍隊が駐留しているのではないかとの錯覚さえ感じ」た者もいた(『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』24頁)。
 
また日本軍の将校は、監督した沖縄地域の有力者に対して、女学生などの若い女性を自分の愛人にするために差し出すよう要求し、実際に多くの女性が皇軍将校専属の慰安婦にされた(藤原編著前掲書、二二頁、川名紀美『女も戦争を担った』二一三頁)。


巨大化する平成軍需利権(英霊商売)に群がる卑しい連中が「従軍慰安婦」や「南京虐殺」は「無かったキャンペーン」の次にターゲットとしたのが「沖縄の集団自決強要」の否定という歴史の偽造事件だったが、悉く、軍部というものが如何に出鱈目な
侵略強盗殺人集団だったかということが浮き彫りになってしまった。
「年端も行かない10代の子供たちまで特攻させて生き延びた破廉恥国家」の国体・軍需利権の実体を若者たちが知る契機になった。


「軍部」という出鱈目集団が沖縄でもやったこと。

昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した赤松隊長は降伏勧告の使者に来た伊江島出身の女性を斬首処刑し、同様に計6人を処刑し、うち少年2人は隊長自身が惨殺した。一方、米兵が降伏勧告に来たら素直に応じ、部下より先に降伏した。八原船舶参謀は特攻艇の出撃を期待していたが、赤松隊長は一切出撃せず艇を自ら破壊してしまった。

「軍官民共生共死の一体化」は、沖縄第32軍の方針であり、軍の自決命令があったことは誰でも知っていた。「米軍に捕まれば男は八つ裂き、女は強姦される」「投降するな、捕虜になるな、玉砕せよ」と様々な儀式や「常会」で伝えられていた。
 関東学院大林教授により、米公文書館から「慶良間列島作戦報告書」が発見された。
 渡嘉敷や座間味で異常な怪我人が多いことに米軍医が気づき、米軍は約百人の住民聞き取り調査をした。その結果日本軍の自決、玉砕命令があったことなど供述でわかった。

「阿嘉島」の野田少佐や、座間味の前任小沢隊長らも「自決・玉砕」の訓示を行っており、軍命令があったことは歴然としている。渡嘉敷では、防衛隊員(多くは大陸兵役経験者、正規兵扱い)や安里巡査らが伝令となり、役場前に住民を集合させた。下士官の兵器軍曹は手榴弾(追加を含め計52発)を2発づつ配り、「1発は敵に、捕虜になると思ったらもう1発で自決せよ」と命令している。赤松隊長はそれを「全く知らなかった」「自決は住民が勝手にやった」などとと言い出す始末である。

2006年10月3日(火) 
米公文書に「軍命」慶良間・集団自決/発生直後の住民証言
関東学院大 林教授発見

 沖縄戦時下の慶良間諸島の「集団自決」をめぐり、米軍が上陸直後にまとめた資料に、日本兵が住民に「集団自決」を命令したことを示す記録があることが、二日までに分かった。関東学院大学の林博史教授が米国立公文書館で発見した。記録は一九四五年四月三日付の「慶良間列島作戦報告」。慶留間島の住民への尋問で「住民らは日本兵が米軍が上陸してきた時は自決せよと命じたと繰り返し語っている」と記述されている。「集団自決」発生直後の記録として、住民への命令状況を伝える貴重な資料。林教授は「自決命令があったことは、既に三月下旬時点で島民たちによって語られていた。戦後創作されたものではない」と指摘。近年、「集団自決」の軍命を否定、沖縄戦の事実をゆがめようとする動きを批判した。
 記録は、四五年四月三日付の米歩兵第七七師団砲兵隊による「慶良間列島作戦報告」。林教授が八、九月に渡米した際、入手した。

 報告では、慶留間の住民を男女別に収容し尋問した内容として「三月二十一日に、日本兵が慶留間の島民に対して山中に隠れ、米軍が上陸してきた時には自決せよと命じたと繰り返し語っている」と記述されている。

 また、座間味島については歩兵第七七師団「アイスバーグ作戦 段階1 作戦報告 慶良間列島・慶伊瀬島」で、座間味の「集団自決」の生存者に対し、医療スタッフが治療を施していることを記述。「一部の民間人は艦砲射撃や空襲によって傷ついたものだが、治療した負傷者の多くは自ら傷つけたものである。明らかに、民間人たちはとらわれないために自決するように指導されていた」と記録されている。

 林教授は、各島の間で「三月下旬の時点において、慶留間では日本兵が自決せよと命じていること、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが保護された島民たちの証言で示されている」と解説する。

 その上で「日本軍ならびに行政・教育を含めて、島民たちは自決するように命令あるいは指導・誘導されていたことは、この三月下旬時点でも明確であった。米軍は事態を正確に認識していたといえる。自決するように命令あるいは指導されていたことが当時から認識されていたことを裏付ける資料といえる」と指摘している。

 慶良間諸島の「集団自決」 海上特攻の任務を帯びた海上挺進隊各隊が駐屯した慶良間諸島では、1945年3月23日から米軍の空襲、艦砲射撃が続いた。米軍が26日に慶留間、座間味、27日に渡嘉敷に上陸すると、「集団自決」が発生。渡嘉敷島329人、座間味島177人、慶留間島53人が犠牲となった。(沖縄タイムス朝刊 1面より)


軍部というものの出鱈目を戦後にじっくりと皇軍の最高幹部田中隆吉がぶちまけている。
平成愛国カルトに洗脳された者たちがまったく知ろうとしない昭和軍需利権の内実である。

田中隆吉関東軍参謀・羅南要塞司令官(1893年生)著
『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)より一部引用

、、、、、賄賂は公行した。虐殺と掠奪と暴行は枚挙にいとまがなかった。、、、、

ある高級司令部では政治経済の監督の責任を有する特務班の幹部全員が相語らって、巨額の公金を
遊興の費に充てた。ある守備隊長は、富裕にして親日家たる華僑を惨殺して巨額の黄白(=金銀)を奪い、これを土中に陰蔽して他日の用に備えた。ある憲兵隊長は、愛する女に収賄せる多額の金額を与えて料亭を経営せしめ、その利益を貯えた。ある特務機関長は、関係せる女の父親に炭鉱採掘の権利を与えた。ある中隊長は戦地における部下の兵の携行する写真により、その妻が美貌の持主であることを知り、陸大受験のために内地に帰還するや、東京の宿にその兵よりの伝言ありと称してこの妻を誘い寄せ、忌わしき病気さえも感染させた。

内地においても、大東亜戦争の中期以後における
軍隊の暴状は、あたかも外地に似たものがあった。暴行もあった。収賄もあった。掠奪もあった。拳銃をもって威嚇し、人民の家屋を強奪したものもあった。ある大隊長は民がひと月五合の酒に舌鼓を打ちつつあるとき、常に四斗樽を備えて鯨飲日も足らなかった。国民が乳幼児と病人のため、牛乳の入手に多額の金を工面しつつあるとき、健康なるある連隊長は、配給所に対し1日五合の牛乳の配給を強制した。国軍の将校を養成すべきある学校の高級将校は、生徒に配給せられたる石鹸数百個をその家庭に運び、これを米麦と交換して一家の生活の資とした。

ある兵工廠の経理官は、地方のボスと結托し、軍需品の横流しを行い、巨額の金を私した。熊本では外出した兵が女学生を強姦した事件があった。しかもこれらはわずかにその二、三の例に過ぎぬ

 海軍もまた、概ねこれと同工異曲であった。否、陸軍よりもさらに腐敗していた。呉の工廠では数年にわたって工廠長以下が出入り商人と結托し、多額の収賄を行った事件があった。ある地方では、海軍の兵が婦女子を強姦した。父兄が抗議すると、隊長は昂然として言った。「戦に負けて青目玉の子供を産むよりよいだろう」と。
さらに奇怪千万なるは食糧である。国民が一日二合三勺の主食の配給に、日に日に痩せ衰えつつあるとき、軍隊は戦時給養と称して一日六合の米麦を貪り食った。肉も魚も野菜も国民の配給量の数倍であった。国民が雀の涙ほどの配給に舌を鳴らしつつあるとき、ある師団の移転の際には、携行し得ざる二百石の清酒が残った。大都市の民が、椀の底が早えるような雑炊を主食の代りとして吸い込みつつあるとき、高級官衛に勤務しある軍人及び軍属は、外食券を用いずして二十五銭の弁当にその腹を膨らました。



南京大虐殺については軍の指導者から末端の兵士に至るまで、虐殺の模様を描いた多くの日記、手記が残されている。
平成の卑しい軍需利権屋にとって南京大虐殺を糊塗することが儲けに繋がるのである。

南京大虐殺・昭和12年(1937年)
・師団長や兵士たちが当時書き残した日記の一部


中島今朝吾中将(第16師団長) 日記 (12月13日)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るものありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので
 部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
 十三日夕はトラックの大活躍を要したり乍併(しかしながら)戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大平門(太平門)に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三○○其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処(箇処)に誘きて処理する予定なり



「南京攻略戦中島台十六師団長日記」
佐々木到一少将(第16師団 歩兵第30旅団(佐々木支隊)長) 私記 (12月13日)
この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。

「佐々木到一少将私記」
宮本省吾(仮名、第13師団山田支隊歩兵第65連隊)陣中日記
『加害の記録 南京大虐殺「日記」』
12/16
警戒の厳重は益々加はり、それでも前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す。午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、之を射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である。
12/17
本日は一部南京入城式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず。小官は八時半出発、南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加壮厳なる史的光景を見のあたり見る事が出来た。
夕方漸く帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二、に達す。
12/18
昨夜来の出来事にて暁方漸く寝に付く。起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の片付をなす。暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
12/19
昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す。午后四時迄かかる。夕方、又捕虜の衣類の始末につき火災起る。少しで宿舎に延焼せんとしたが、引留む事が出来た。
明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる。牛肉の油上まで作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす。風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。


参考文献
『日本の歴史・大東亜共栄圏』
『増刊歴史と人物』
『加害の記録 南京大虐殺「日記」』
『南京事件』

軍需・国体利権にしがみ付く恥知らず共は
最後には未来を背負った自国の子供たちまで特攻させて生き延びようとした。
他人の土地に侵略兵士として狩り立てられ、侵略強盗殺人の犯罪者となった皇軍兵士たちは「東京裁判」さえ受けさせて貰えなかった。
侵略殺人やその共犯者として
唯一の贖罪となる筈だった有罪判決さえ受けさせて貰えない未決の侵略強盗殺人の犯罪者のまま若い兵士たちは永い眠りに投げ込まれたままだ。
子供や肉親を惨殺されたアジアの被害者の慟哭と憎悪を記憶したまま、侵略兵士たちは東京・九段の宙空に未決の犯罪者として彷徨している。
 侵略強盗、侵略惨殺犯罪を、
遂に自国で裁くことのなかった戦前戦中のモラルがいま平成のこの国を覆い尽くしている。
ミサイル網やイージス艦、スパイ衛星などという泥棒詐欺に数千億円をばら撒く金は有っても、侵略強盗殺人への憎悪を浴びたまま逝った皇軍の犯罪未決兵士の100万体を越える遺骨はアジアの各地に放置されたままだ。
これが、
戦前から途切れることなく引き継がれて来た
軍需利権の走狗の道徳なのである。







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